ドラゴンフライの空

『ドラゴンフライの空』



「ルート66には古き良きアメリカがまだ陽炎のように残っている」
 新兵の頃、そんなことを俺に言って聞かせた奴がいた。すでに戦死し名前も忘れたが、アメリカのえらく田舎から出てきていたことだけはまだ覚えている。その旧国道ルート66号線沿い、半世紀以上前から営業を続けているダイナーにもう半月も逗留している事が、そんな感傷的な台詞を思い出させたのかもしれない。
 夕暮れの店内は五分の賑わいといったところだ。顔なじみになった爺さんに軽く手を上げて挨拶を交わす。
 日が沈むより少し前に昇った月は、窓際の席からほぼ真円を描いて見える。その逆方向、日没後の照り返しに映えて鮮やかなオレンジ色に輝く東の雲に、数匹の『竜』のシルエットがあった。
「ワタル、なにボーっとしてんのよッ」
 声より先に背中を手のひらでバシッとやられた。振り向かなくてもわかる。ウェイトレスのケイティだ。両手を上げて降参の意思表示。
「気安く戦闘機乗りの背後を取らないでくれ、自信を無くす」
「そんなだから飛行機ごと墜とされたりするんじゃない?」
 ダイナーの制服に身を包んだ、栗毛の髪を持つ少女が笑顔でのぞき込んだ。その言葉が本気でないことは表情でわかる。
 それより、ケイティの家族が『あの日』の飛行機に乗っていて墜落死していたことが気になった。しかし、たとえ冗談でもこんな会話ができるところが彼女の強さなのだろう。ホッとするとともに、この会話はこのところ俺を悩ませているある考えを呼び起こした。
 ケイティの強さに引き換え、あの日『竜』に家族を奪われた憎しみに突き動かされて、こんな異国の地まで来てあがいている自分は、果たして強いといえるのだろうか。
 嫌な胸騒ぎを抑え込むように、俺はことさら平静を保つよう振舞った。
「なあ、竜には昼間を好むものと夜を好むものがあるって知っているか?」
「そうなの? ここいらみたいに鄙びた土地だと、空を見上げれば竜の一匹も必ず目に入るけど」
「ほら、あそこに見える風竜がそうさ」
 まだ夕陽の残滓が残る西の空を指差す。赤い空を背景に切り絵のように細長いシルエットが舞っている。
「奴らは太陽を目指してどこまでも飛んでいく。つまり休むことなく地球の自転に合わせて飛行を続けているわけだ」
「へえ、それはすごいスタミナねえ」
 単なる感想として出たその言葉に、俺は二の句を継げなかった。そもそも奴らが何を食らい、エネルギー源としているのかもはっきりとは判っていない。そう、俺たちは竜について結局何もわかっちゃいないんだ。

 竜の出現はあまりにも突然で、そして完膚無きまでに破壊的だった。
 五年前の七月九日、全世界同時に出現した竜は数万とも数百万とも言われる。小さな個体で全長十数メートル。東洋の伝説にある竜に似た蟲。複数の対になった翅を生やしたような存在が、その瞬間いずこからともなく空中に現れた。
 奴らは超音速で飛び回り、地表近くから成層圏のはるか上、宇宙空間までを徘徊した。その存在は言うまでもなく、目的も一切不明。
 一つだけはっきりしていることは、奴らの頭部から発する強力な電磁波が、航行中のすべての航空機の電子部品を破壊しつくした事実だった。その影響範囲は全世界。ありとあらゆる航空機が墜ちた。
 悪夢のような一日。そしてその後の世界を覆う大混乱。流通は麻痺し、経済活動は停止し、国家は治安を維持するため軍隊を動かした。
 そして正体不明の敵に対して攻撃を行った者は、最先端の電子機器を搭載した兵器が全くの無力であることを知ることとなった。空の覇権は人類の手からいとも簡単に奪われた。
 だが、それを良しとしない者もあった。ハイテク兵器が無効と知ると、歴史を半世紀以上巻き戻し、人間の手で操縦し目で狙いを定める航空機で敵と対峙するアメリカのような国だ。
 あまりにも効率の悪い戦闘をカミカゼと揶揄するマスコミも、民衆の世論は覆すことはできなかった。誰もが復讐を求めていた。そして俺のように、家族を竜によって失い米軍に志願する者の数も少なくなかったのである。

 俺――神無木ワタルは飛行時間がすでに一千時間を超える戦闘機乗りだ。パイロットとして死線を数度もくぐってきている。
 全世界でただ一国、もはや不毛ともいえる戦闘を続けている米国に渡ったのが十八歳の時。それからエアフォースに入り四年。ベンチに投げ出した体はすでに鍛え抜かれた兵士のものだ。
 ただし、今のところその右足はギプスによってしっかりと固定されている。そして身を横たえているベンチは、物干し台しかない殺風景なダイナーの屋上に置かれたものだ。すぐそばに松葉杖が転がっている。
 近傍の空中戦で失速し、トウモロコシ畑に無謀な着陸を試みた一部始終を偶然見ていて駆けつけたのがケイティだった。電話で連絡した軍にも僻地まで負傷兵一人を回収する余裕がなく、傷病休暇……要は現地療養を余儀なくされた。
 軍人の特権で自由になるクレジット、そしてなによりケイティの寛大な心のおかげで、このダイナーで治療生活を続けることになったのは幸運だった。
 もう正午を過ぎているだろう。秋も深まっているが、アメリカ南西部の日射しはまだ刺すような熱気を失っていない。
 それでも視線を空の一点に定めて俺は動けなかった。昨晩からの自問自答を繰り返す自分があった。俺は心の弱さをこの戦いにぶつけているのだろうか。
「あー、ワタル! またこんなところに」
 やけにキーの高い英語が響く。ウェイトレス姿の少女が、トレイに食事を載せ屋上への通用口を上がってきた。
「何処にいようが俺の勝手だろ」
 視線だけ向けて俺は応える。
 少女――ケイティ・ホークアイは落胆したような態度は微塵も見せない。
 豊かなストレートの栗毛に黒い瞳。生粋のネイティブアメリカンである祖父と同居しているケイティは、モンゴロイドの血が四分の一入っている。祖父がダイナーの経営者でケイティはアルバイトだ。
「なぜ高いところが好きなのかしらね。飛行機乗りってみんなそうなの?」
 埒もない質問にはこたえず俺は身を起こした。昼間のケイティは赤のストライプと大きな襟が特徴のワンピースに、エプロンをつけた制服を着ている。
 ルート66が廃線になり高速道路にその座を譲って久しいが、それでも最近はこのダイナーに立ち寄る客は多い。アメリカ全体が、いや世界中が昔の世界を懐かしんでいるのだ。
「食べるものも食べないとその怪我も治らないよ」
 クラブハウスサンドコールスロー、チェリーパイがトレイには載っている。ポットにはコーヒー。俺は一応神妙な顔つきでトレイを受け取った。
 満足げな表情で見つめる年下の少女に感謝しながらも、心は索漠としている。先ほどまでの思考が、戦線に戻るという義務を焦燥感に変化させていた。
 サンドウィッチに手を伸ばした瞬間、日差しが遮られ不意にあたりが暗くなった。上を見上げるいとまもなく、ドンと腹に響く衝撃波。はるか上空を通過した存在を北西の空に確認。『竜』だ。それもとびきり大きい。全長五百メートルはあるだろう。その姿が見る間に小さくなっていく。
「……オールド・ドラゴンフライ」
 ケイティが呟いた。声が震えていなかったことが奇跡的だった。
 そう、奴はこのあたり、オクラホマ州近隣を中心に南西部を支配する『竜』のボスだ。このクラスの竜は北米大陸全体でも五匹は居ないと言われている。そして細長い体躯と二対の翅からオールド・ドラゴンフライとあだ名される竜こそが、ケイティの両親と妹の命を奪った仇だった。
「畜生ッ」
 食事をそのままに、俺は松葉杖を拾い乱暴に立ち上がった。
 そうだ。あいつだ。この土地を呪縛し、『俺の夢にまで現れる』竜の王。
「そんな体で何ができるの」
 ぴしゃりと、しかし穏やかにケイティは続ける。
「私、夢に見ることがあるの。蒼い世界。家族やほかの死んでしまったたくさんの人たちが竜と一緒に笑って暮らしているの」
 その声には悲しみも怒りも含まれていなかった。しいて言えば畏れに近い感情を汲んで取れた筈だ。
「馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てたが内心の怖気は抑えきれない。また夢の話だ。近しい人を竜に殺された者の間に広がっている密やかな噂。
 ケイティに背を向けたまま、一呼吸おいて俺は応えた。
「約束をしよう」
 上半身で斜めに振り向き俺は言った。
「約束するよ。あいつは俺が倒してやる」
 会話を打ち切ると、俺は暗い階段をゆっくり降りていった。ケイティは追ってこなかった。足音もしなかった。
 怒りを支えにこの後も俺は歩き続ける。死など絶対的な恐怖の対象に比べればちゃちなものだった。
 ――そう、信じていた。あの頃までは。

絆創膏同盟

『絆創膏同盟』



「なあ、日曜日の試合勝ったぜ」
 そう言いながら、リョウがテーブルごしにスネを蹴ってきた。立て付けが悪いマクドナルドのテーブルが揺れる。
「勝ったって空手か」
 照れ隠しなのか、さかんにスネを狙ってくるリョウをかわしながら僕はこたえた。
「ああ、中二組手で優勝。やっぱジンクスってやつだな」
「おまえ、万年準優勝だって言ってたものな。……じゃあ」
 半立ちになり、まだふざけているリョウをこづいてから僕は左手を差し出した。リョウもテーブルに肘をつけたまま左手を前に出す。僕が腰を下ろすと、ちょうど腕相撲のような体勢になった。そのまま互いに右手を差し出し、相手の左手の甲に貼った絆創膏を剥がす。僕のその部分の肌にはRとブルーのボールペンで書かれている。
「サンキュー、シン」
 絆創膏をヒラヒラさせながらリョウが言う。リョウの手の甲には“慎”と僕の名前の頭が書いてある。
「やっぱ、シンとの同盟は効くな。なんてーの、心頭滅却するというか。技が冴える」
「シンちゃんの浮世離れしたキャラが生きてるんだよねー」
 なんとなく失礼な事を言いながら、ポテトとシェイクを手にしたサエが割り込んでくる。誰にも優しくて面倒見のいいサエだが、溶けかけたシェイクをポテトですくいながら食べる趣味だけは同意できない。
 サエの右肘にも絆創膏が貼られている。僕の隣でさかんにケータイをいじっているアキが昨日貼ったものだ。願いは今週発売のライブチケットを必ず手に入れる、だ。
 この絆創膏を使った遊びは、いつもこの店に集まる仲間内で始めたものだ。願いを一つ相手に話し、体のどこかにマークを書いてもらい絆創膏で隠す。同様に自分も聞き届けてくれた相手の同じ箇所にマークを書いて絆創膏を貼る。互いの絆創膏が剥がれなければ、その期間内に願いがかなうというジンクスだ。
「そういやその額の奴、新しいな」
 僕の額を指してリョウが言う。
「あ、リョウくん昨日いなかったものね。ハルコとの同盟でしょ。それなんのお願い?」
 入院している姉との面会でハルコは今日学校を休んでいた。いつものことだ。
 同盟の内容は仲間内にしか教えないルールになっている。そういえばこの絆創膏を交わしたとき、サエは電話、アキはトイレか何かでこの店の席を外していた。
「それがあまりハッキリしない話でさ」
 話しはじめた途端、それまでケータイに没頭していたアキがいきなり背をそらせつぶやいた。
「うわ……マジ」
 イヤフォンを外し、アキが向き直る。放心したような表情だったが目が笑っていなかった。
「ちょっと、コレ見て!」
 そのまま僕らの方にケータイのテレビ画面を差し出す。そこには、よく顔を見る政治家が見える。政府特別放送、という見慣れないテロップが目に入った。
「総理大臣よね、このヒト。どうしたの」
 いつもののんびりした口調でサエがたずねる。
 アキの大人びた顔には、これまで見たことがないような険しさが満ちていた。学年一の秀才で、校内ではいけ好かない態度を取るヤツだったが、仲間内ではよく笑顔を見せる。でも、こんな厳しい表情ははじめて見た。
「私もよく理解できないんだけど……地球に衝突するコースの隕石が『突然発見された』って」
 その言葉が合図にでもなったかのように、途端に周囲の客席からケータイの着信音が響きはじめた。大人達が動揺した口調で会話をしている。話しながら出口を急ぐ人もいる。
「で、なにが大変なの?」
 腑に落ちない表情でサエが聞いている。リョウは学校は休みになるのかと嬉しげな口調だ。アキは今の天文学では有りえないことだとかなんとか、ややキレかけた口調で説明している。
 その時、僕のケータイに着信があった。メールだ。無意識の動作でケータイを開く。差出人はハルコ。
『願いがかないました。これから家族全員で長野のおばあちゃんの家に旅行です』
 そうだった。ハルコの願いは「死ぬまでずっと家族が一緒にいられますように」だった。額の絆創膏がむず痒い気がした。

二人の食卓

『二人の食卓』



 1DKのキッチンから、千夏の小さな悲鳴とともに盛大に何かをひっくり返す音が聞こえた。
「大丈夫か!?」
 眺めていた雑誌を放り出し、浩紀は急いでのぞき込む。水びたしの床にはパスタ鍋が転がり、半泣きの千夏が座りこんでいた。
「火傷は!? どこかぶつけてないか?」
「……うん、大丈夫。ガス台にかけようとしたら重すぎて手をすべらせちゃって」
 浩紀は千夏の手を取って立たせると、小さな肩や背中に触れて異常がないことを確かめる。パスタ鍋を火にかけようとして、自分の方に向けて倒してしまったらしい。小柄な千夏にはガス台が少し高かったようだ。デニムのエプロンはもろに水をかぶっている。
「とりあえずここは拭いておくから、チカはエプロンを洗濯機に入れて」
「ごめんねヒロ兄ぃ。中も水かぶったみたい」
 エプロンの前を手で開けてのぞき込みながら、千夏が情けない声をだす。
「あー、今日は着替え持ってきてたろ。体拭いて着替えろ。タオルは洗濯機置き場の棚に洗濯済みのがあるから」
「うん……ごめんね」
 重い足取りで千夏はユニットバスのほうに向かった。
 キッチンの上には挽肉と玉葱、トマト缶が手を付けられずにあった。今年から大学生の一人暮らしをはじめた浩紀は自分ではあまり料理をしない。それでもミートソースの材料だろうとあたりがついた。缶入りのミートソースしか扱ったことがなかったので、家庭でも作れるものだということに初めて気がついた。
「さて、と」
 水のしみこんでしまった靴下を脱ぐと、浩紀は雑巾で床を拭きはじめた。二リットルくらいの水がこぼれたのだろうか、結構な量だ。水だまりに雑巾をひたしてはシンクで絞る。
 部屋の方に人の気配が戻った。着替えてきたのだろう、浩紀は何とはなしに目をやる。まだ下着姿で頭からタオルをかけただけの千夏の姿があった。十七歳にしては小柄で未発達な体。今日泊まりに来るのに持ってきた、大きなバッグに手をかけた千夏ともろに目があった。
「こっち見んな、バカッ!」
「あ、いや、もう着替えてると……」
 罵声とともにそこらにあったボックスティッシュが投げつけられた。
「ごめん、降参、あやまるから!」
 さらにフリーペーパーと空のエコバッグも投げつけてから、千夏はバッグを引きずってキッチンからの死角に移動した。
 千夏が視界から消えて、ようやく浩紀は両手を挙げた降参のポーズをといた。ちらっと見ただけだが、千夏の腕や腹部には痛々しい治療跡が見えた。下着姿よりも、その傷跡を見てしまったことが悔やまれた。


「なあ、晩飯は外にしよう」
 着替えてきた千夏に浩紀は提案した。
「今日の食材もそんなすぐ傷むものじゃないみたいだし。チカのはじめての手料理は明日の楽しみにして」
 千夏は仏頂面の残る表情で少し考えて、うなづいた。
「ヒロ兄ぃがそれでいいなら」
「どこがいい?」
 千夏は少し距離の離れたファミリーレストランの名前を口にした。大きくチェーン展開はしていないが、雰囲気が良く接客も丁寧でこの界隈では人気がある。
「OK、じゃあ上着きて出よう」
 アパートのドアを開けると涼しいと言っていい夜気が流れ込んでくる。来週にはもう十月だ。残暑の日もめっきり少なくなった。浩紀は千夏の手を取って二階からスチール製の階段を降り、頑丈なのが取り柄の自転車を出した。
 少し風を感じるが湿気はない。空に雲はなく、上弦の月が西の空にくっきり見える。千夏は荷台に横座りで乗り、LEDライトをつけた自転車は住宅街を走り出した。
「薬、持ってきたか」
「……うん」
「なあ、今日は家にいなくても本当に大丈夫なのか」
「うん、うちの家族もヒロ兄ぃのことは信頼してるから」
「信頼……か。なんだか微妙な気分だな」
「だって、昔からのチカを知ってるのはヒロ兄ぃだけだもの」
 しばらくの無言。自転車が国道に出た。自転車の二人乗りは警察につかまるんだったっけ。浩紀はぼんやりとそんなことを考えた。
「ねえ、ご飯食べたら河原で花火しようよ」
 不意に千夏が切り出した。
「馬鹿言え、もう花火なんて売ってないよ」
「いや、あるね。ほら、ドンキとかさ」
「周りの人に迷惑だろ」
「うるさくない花火なら大丈夫だよ。線香花火とかそーいうの」
 あくまで食い下がる千夏に浩紀は今年の夏、千夏がほとんど外出許可をもらっていなかったことにあらためて気がついた。
「そうか……探せばまだあるかもな。俺の友達に夏の残りを余してる奴もいるかもしれないし。携帯で聞いてやるよ」
「うん、うん! 絶対やろう、花火やろう!」
 千夏はこどもみたいにはしゃいでいた。その明るさが浩紀の心をかえって暗くした。自転車を漕ぎながら、いまの顔を千夏に見られなくてよかったと思った。
「来年まで待てなくてごめんね」
 小さくつぶやいて千夏は浩紀の背中に顔をうずめた。浩紀はこたえず、ただペダルに力を込めた。進行方向の月が霞んだ。

電車のムンク

『電車のムンク




『ぶっ殺す』
 簡潔で過激な文字が目に飛び込んだ。ノートPCの液晶画面から躍り出て、まるでそこだけ輪郭が強調されたかのように感じられた。鼻白み、PCのタッチパッドを滑る指先が止まった。
 ブログのコメント欄に表示された時刻は二十分前のものだ。記名欄は空白になっている。勤めから帰宅し、いつものように確認した自分のブログだ。僕のブログは記事を書いたはしからコメントが付くような人気サイトではないし、スパムコメント前提で煽りネタや時事ネタを扱うようなたぐいでもない。
 友人たちに日々の出来事を伝えられれば十分な、せいぜい映画とか本とか自分の感想を共有できれば、という程度ではじめた他愛ないものだ。毎日更新しているおかげで、いわば常連とでもいう様なネットでの知り合いもできた。それでもたまに、コメント欄に反応があればいい方だ。
 今日だって夕方の通り雨で濡れた事くらいしか書いていない。こんな物騒な、しかも無記名のコメントが付くような心当たりはなかった。
 ……いや。一つの連想が形を成す。これは「ムンク」の書き込みなんじゃないか?
 その途端、暴風のように嗜虐的な感情が沸き起こった。僕はモニタをにらみつけ書き殴った。
『上等だ! 明日の夜、新木場で降りろ。公園に来い』


 ムンクというのは僕がつけたあだ名だ。通勤電車でよく見かける男につけたものだ。
 ひどく小柄な男だ。やせぎすで背広が中学生の制服のように見える。満員電車の中、いつも両手で耳を押さえ、両目をきつく結んでいる。乗車中、吊革にもつかまらず直立不動でその体勢を保っている。ムンク「叫び」を連想させる、このポーズがあだ名の由来だ。
 満員電車が好きな人などまずいない。ムンクのひどい貧乏揺すりと頻繁な舌打ち、そして男の発する得体の知れない雰囲気は、周囲の不快指数を一層高めていた。そして東京駅に着くと、男は一心不乱に車外へ駆け出す。周囲の乗客の安堵と、奇異の眼差し。
 一週間前、僕は偶然ムンクと隣り合わせになった。間近で観察すると、小声で常になにかつぶやいている。電車が揺れ、僕の足が彼に触れた。ムンクのつぶやきは一瞬途絶え、数秒後また再開された。何駅か過ぎた頃、そこだけ声が明瞭に聞き取れた。『ぶっ殺す』。
 その瞬間、僕の中で何かが弾けた。突然爆風のように、彼に対するサディスティックな妄想が際限なく膨らみはじめた。この貧弱な体格だ。肩を押しただけで簡単に転がせるだろう。耳を押さえたままうずくまるムンク。その腹に食い込む自分の靴先を想像した。低いうめき声に構わず蹴りを入れ踏みつける。ぐったりとしたところで胸ぐらを掴みあげ、妄想の自分は彼の体を激しく電柱に打ち付ける。容赦なく僕は男を小突き回す……。
 ムンクは普段通り東京駅で逃げるように降りていった。この顛末をおもしろおかしくブログに書いたのがその日の晩だ。無論、自分の暴力を欲する情動などおくびにも出さなかった。

『通りすがりのコメントにキレるなんてらしくないですよ』
 翌朝ブログに付いていたのは、付き合いの長い友人からのそんなコメントだけだった。
 しかし、僕の中には確かな感触があった。あのコメントはムンクだ。奴は僕の返信を読んだに違いない。
 ネクタイを締め、いつも通り鞄を手にする。そして社内の野球チーム用に購入したバットケースを肩にかけた。確かな重量が僕の心に暗い震えを走らせる。
 開いた右手を握り返す。肉を打つ金属バットの感触を、僕は確かに感じていた。

リハビリ

『リハビリ』



 視界の片隅がチカッとまたたいた瞬間、俺の全身は千度の火炎に包まれていた。テロリストどもが最近使い始めた、燃焼剤入りのカクテルボムだ。外気から閉鎖された地下道でこれを使われたら、首都警の重ジャケットでも耐えられない。まず酸欠で脳がやられる。
 そんなことをぼんやり考えることができるのは生きのびたからだ。俺は周囲を見回そうとしたが、全身の感覚が無い。視覚のみ生きているがまばたきができない。皮膚が焼けたせいで、再生槽にでも入れられているのだろうか。
 視界に特徴のある彫りの深いヒゲ面が映った。これまで見えていた白っぽい光景は病室の天井だったようだ。人物は救命救急センターのドクターイブラヒムだ。移民ながら実質このセンターの中心人物で、中央へのコネクションも太いという噂だ。俺も身体強化ドラッグ絡みのヤマで何度か意見を求めたことがある。
 イブラヒムは俺の目を覗き込むと手を振って、何事かしゃべった。何を話しているのかは全く聞こえないが、周囲に何人かいるようだった。少し不愉快な気分になり口を開こうとした瞬間、俺は意識を失った。


 二度目の覚醒には音が付いていた。見えているのはまたイブラヒムだ。
ヤマザキ巡査、私が見えるかね?」
 俺は肯こうとしたが、相変わらず身体感覚は喪失したままだった。
「ああ、起きているようだね」
 イブラヒムは周囲になにかの表示を見て取ったようだ。
「まだ多少の不自由はかけるがもう少しだ。すまんがもう少し眠っていてくれたまえ」
 どこが“多少”だ、と言い返したかったが奴は俺の意識を自由にオンオフできるようだった。「呪われろ」という呟きはイブラヒムには伝わらなかっただろう。


「きみが今生きていられるのは爆発の瞬間気絶したおかげだよ。他の連中はジャケットのおかげで身体は保護されたが、その後の酸欠で脳死してしまった」
 三度目のドクターとの会見は不愉快極まりない状況で始まった。視聴覚は回復したが、まだ体はコンクリートに埋められたように感覚が無い。
「で、俺はくたばり損なって回収されたと」
 気味の悪い甲高い合成音が響く。これが今の俺の声らしい。
「そう。意識不明のうえ、鎮静剤が体の酸素消費量を抑えたのが良かったな。ただしきみの体はジャケットに焼きついてしまって、再生も不可能な状態だった」
「で、この体は? なにか特殊な義手なのか」
 俺はリクライニングベッドに背をもたれかけさせながら、唯一自由になる両手を見た。オレンジ色のちんちくりんな手が目に入る。動くことは動くが触感が無い。指先も首も動かないので毛布に隠された下半身は見ることができなかった。
「実は手だけじゃない」
 イブラヒムは哀れむような表情で、しかしどこか得意げな日本語で言った。
「きみの全身は機械に換えさせてもらった。生身の部分は中枢神経のほとんどと舌だけだ」
 反射的に俺は舌で唇を舐めた。滑らかなプラスチックのような触感が伝わる。目覚めてはじめて生きている感覚を味わった。
「この措置は首都警特別法の人身保護特殊条項によって行われた。君の身柄はしばらく首都警の管理下に置かれるが異存はないかね?」
 ハッと俺は笑った。残念ながら音声にはならなかったが。
「重ジャケット隊に配属された時点で金玉までお上に持ってかれたようなもんだ。あんたのほうがよく知ってるだろ。」
「それは覚悟のよくできていることだ。きみの上司から受けた報告通りの精神面での強靭さだ」
 イブラヒムは安心したように笑みを浮かべた。所属は違えど彼のような、俺から見たら遥か上の地位の人間がここまでの配慮を見せるとは正直意外だった。
「で、なんだ俺はロボコップにでもなったのか?」
「……あぁ、昔そんな映画があったな。似たような物だがこの国にはもっと愛されているロボットがあるだろう? 鉄腕……なんとかとか。むしろそちらに近いな」
 イブラヒムの微妙な語調に俺は悪い予感を感じた。奴の差し出した一枚のスチール写真が目に入った。大きな耳に特徴的な触角。そして鮮やかなオレンジ色に染まった全身。
「……ピーポくんか」
 気が遠くなる感覚と共に巨大な喪失感が襲ってきたが一瞬のことだった。この機械の体のバイタルセンサーは、情動を完全にコントロール下に置いているようだった。
 俺は今後SPとして重要人物の警護に“さりげなく”置かれるそうだ。ほかにもなにごとかドクターはしゃべっていたが、俺は聞いちゃいなかった。重ジャケットの倍以上の強靭さを誇るというこの体をどうしたら壊せるのだろうと考えながら。

遺品

『遺品』



to:高野均巡査部長どの
from:柏木涼子
title:メモリ解析の件
date:2035年5月28日9時32分


 先日依頼いただいた携帯メモリの解析結果ができましたのでお送りします。このメールに添付したホロデータをお手持ちのデッキにて展開してください。できれば所轄のホロスタジオを用いられることをお勧めします。安全のためデータは巡査部長の公開鍵にて暗号化しています。
 サマリーはいつものように紙綴じの和文タイプ様式でホロの一番最初の地点に置いてあります。すべてのメモリ内情報にそこからアクセスできますが、今回のメモリには一つ大きな特徴があります。
 データはテキストデータだけでした。本件のメモリ所有者は一切の電脳化を受けていないホームレスだったと依頼文書にありましたが、バイタルデータはおろか、音声も映像も入っていませんでした。すべてが所有者によって打ち込まれたテキストデータ、それもおそらくはひとつの『小説』です。
 私には電脳セキュリティとホロデータ解析の専門家としての仕事は無きに等しかったのです。確かに今回持ち込まれた携帯メモリは非常に古いタイプで、インターフェースは自作せざるを得ませんでしたが、メモリサイズは一〇〇ギガバイトと取るに足らないものでした。最新鋭のバイタルセンサーなら数秒で食いつぶしてしまう容量です。
 意味解析をかけてこれが一つの物語であると判断した時点で、AIにVRホログラムを作らせてみました。驚くべきことに一つの世界、そして複数の人種と数多の人々の物語が緻密に描かれていました。まずはこのホログラムをご覧いただくのが手っ取り早いかと思われます。


 以下は個人的な感想です。昨夜ホロデータへの解析作業をAIに任せている間に、文章量を千分の一に要約したダイジェストテキストを作り読んでみました。一晩かかりましたが読む目を休めることが出来ませんでした。お許しをいただければ巡査部長にこのデータが渡った後も、複製を破棄せず手元に置いてもよろしいでしょうか。ぜひ彼の残したこのテキストを全て読んでみたいのです。
 ホームレスとして生活していた生涯のうち、三〇年近くをかけてこの文章は書かれています。彼がなぜこのようなものを残して死を選んだかは知る由もありませんし、私の仕事の分を超えます。捜査とは無関係に、ただ物語の全てを読んでみたいという好奇心が抑えられないのです。

 了承いただけることを願っております。仕事の都合が合えば、また湾上新区のバーでもご一緒しましょう。大学同期の吉野がいい店を見つけたと言っていました。あなたのいつか言っていたシングルモルトがあるとか。
 激務ゆえ体だけはご自愛ください。それではまた。

渡り

『渡り』



「胸の上で両手を組んだまま眠ると悪い夢を引き寄せる」
 そう言ったのは祖母だったろうか。それとも夏休みで祖父母の家に遊びに来ていた、三つ年上の従姉だったろうか。
 その晩十歳のぼくは興味に駆られて手を組んだまま眠りについた。その時の夢は今でもはっきりと覚えている。
 すすき野原にぼくは立っている。薄暮を過ぎて空には星が瞬きはじめている。初秋のようだ。わずかに肌に触れる風は、歩きどおしだった体の火照りを少しずつ奪っている。
 虫の声一つしない野原に立ちすくみ、ぼくは何かを待っている。おそらくは一緒に家路につくことを約束した従姉だ。彼女とはぐれ、万一の待ち合わせ場所として野原の中ほどにある小高い丘を決めてあったのだ。
 その時鳥のような声がした。上空を見上げると数百は超える鳥の群れが西へ向かって渡っている。かなりの上空を飛んでいるわりにはその体躯は大きい。地平線に没した太陽の光が彼らには届いているのか、朱鷺色に照らされている。ヒョウヒョウという鳴き声ははじめて聞くものだった。しかもその姿がどうもおかしい。翼らしきものが見えず、どうみても両手を広げた人間のように見える。
 思いのほか速いスピードで群れは西の空へ飛び去り、やがて肉眼では追うことができなくなった。
「あれは河童の渡りよ」
 不意に従姉の声がした。ぼくが上空に気を取られている隙に近くまでたどり着いていたらしい。
「河童は夏の間は川に住むけど、冬になると山へ向かうの」
 そんな話ははじめて聞いたが、当時のぼくは従姉のことを信頼しきっていたのでそのまま信じた。
 後年、大学で民俗学のゼミを取ったぼくは、河童の異称にヤマタロやヤマワロというものがあることを知った。西日本の河童伝承には実際に山と川を季節ごとに移動するものがあるらしい。
 十歳のぼくの夢に出てきた河童は本当に夢だったのか。あるいは手を組んで眠ると悪い夢を引き寄せるという話を聞いたときに、一緒にこの河童の伝承も聞いていたのか。祖母も亡くなった今となっては確認のしようも無い。
 それでも今になっても眠りにつく際、両手を組んでは不思議な夢を見られないものか夢想することがある。確かにぼくは河童を見たのだという確信はこの先も揺らぎそうは無い。