空殻のテーミス
1. 空殻
「くうかく」と読ませるが本来の読みは「あきがら」。中身のない貝殻、肉のない貝殻の意。転じてからになっていて、中に何もないこと。
1
あの大雪の日からちょうど半年がたった。そのときも自分はここにいた。女子高の制服を着込み、肩まで届く髪を指先で弄びながらそんなことを思う。
槇枝燐侘(まきしりんだ)は他に客のいないスタバから、渋谷駅前の大交差点を眺めていた。八月の日差しに晒された歩行者は、全体が一つの意思で制御されているかのようにスクランブル交差点の中で交わり、それぞれがそれぞれの向こう岸へたどり着く。
青信号の点滅する中、人の流れが乱れたのを燐侘は見逃さなかった。規格品のようにそろった身なりの会社員たちの中で、遠目に見てもわかる妊婦と少年の組み合わせは目立っていた。
飲みかけのソルティライチのペットボトルの蓋を閉め、普段使いには大きすぎるメッセンジャーバッグに放り込むと、燐侘はカウンターの中で棒立ちになっている店員に手のひらを振ってそのまま店を出た。
「大丈夫~?」
車道に取り残された二人は路上に出た瞬間に燐侘の目に入った。離れた距離から大きく声をかけると少年が顔を向けた。年の頃は十二、三歳。強いまなざしは線の細い体には似つかわしくない。こんな世の中をサバイバルしてきたのだからむしろ当然だ。燐侘はカフェで緩んだ頭を切り替える。
交差点を行く車列は交通整理がされているかのように二人を避けていく。相手を警戒させないように、横断歩道の前にバッグを置いた燐侘は両手を空けてゆっくりと近づく。
「その人、お母さん?」
燐侘の問いに少年は硬い表情のままうなずく。少年よりも少し背の高い女性は遠目に見たように妊婦のようだった。もともと華奢な体格なのか、お腹の膨らみは目立って見えた。足がもつれて転んだのか、妊婦は自力で立ち上がるのが難しいように見える。そして、彼女が発するたたずまいから燐侘は一つ確信を得た。
「でも、お母さんはもう――」
燐侘の言葉を断ち切るように、少年は母親の手をつかみ、半ば背に負うようにしてスクランブル交差点に向かって走り出す。
とっさに彼らを避けようとした軽トラックが対面の流しのタクシーと衝突する。巻き込まれまいと周囲の車も急停止し、交差点は動きのとれない車両の大渋滞で埋まった。
車からは誰も出てこない。信号を待つ歩行者も誰一人声を上げない。一瞬の静けさを破るように警笛の音が響いた。ハチ公改札脇の交番から警官二人がこちらへ向かっている。
「キミじゃ無理だ」
燐侘は母親の体の下に身を潜らせ、モデル体型の長身を活かして一気に背負いあげる。
「ついてきて!」
燐侘はメッセンジャーバッグを拾いセンター街へ駆け出す。
突然現れた女子高生然とした女の行動に少年の思考は混乱する。一瞬の躊躇ののち、遠ざかる母親の姿を見失うまいと足は自然と二人を追いかけていた。
だが決断が遅かった。追ってきた片方の警官の手が少年の襟首を掴まえる。
「母さん!」
少年の叫びに、燐侘は母親を背負ったまま振り向く。その右手には魔法のように黒く剣呑な形状の拳銃が握られている。
「そのまま!」
燐侘の声と同時に警官の頭部が破裂した。しかし血と脳漿がぶちまけられるようなことは無い。頭皮を張り付かせた頭蓋骨は砕けた陶器のように乾いた音を立てて散乱した。
警官の手が緩んだ隙に少年は体を沈め、起き上がりざまにその腹を思い切り蹴飛ばした。頭を失い手足を振り回して起き上がろうとする警官を尻目に、少年は母親を背負う少女に必死に追いすがった。
2
繁華街のエアスポット。渋谷区円山町のラブホテルの一室が今の燐侘の生活拠点だった。立ち寄る客も従業員の姿すら今は無く、燐侘は気兼ねなく広いスイートルームを利用している。
「お母さんの具合はどう?」
「お腹の赤ちゃんなら大丈夫。安心して寝てる」
少年は間宮拓人(まみやたくと)と名乗った。母親の名は優衣(ゆい)。優衣は大人が四人並んでも余裕がありそうな超キングサイズのベッドに横たわっている。目を閉じて眠っているように燐侘には見えた。
「そう。胎内の子は生きてるのね」
燐侘の言葉に小さくうなずく拓人。
「もし差し障りがないなら、お母さんの顔に少し触れてもいいかしら」
燐侘の意図を図りかねている様子の拓人だが、大きく息を吐くとこれまでの緊張を緩めた。
「あなたが僕たちを食い物にするような悪人では無いと信じるよ。あのおっかない銃で助けてくれた恩もあるし」
「ありがとう。じゃあ」
燐侘は母親――優衣の頬にそっと手で触れる。皮膚からは体温を感じる。この肉体は生きている。でも。
「キミのお母さんはモナド症候群に罹っている。要するに死んでいる。そうね」
「いまさら強弁するつもりはないよ。母さんも外のヤツらと同じ。体は動くし『仕事』もできる。でももう元には戻らない」
辛いことを言わせたと燐侘は少し後悔したが、拓人の方は状況を他人に話すことでむしろ心の重りが軽くなった。
「もっと私を信頼してもらいたいの。少し話を聞いて欲しい」
無言で拓人は続きを促す。
「私の天賦(ギフト)はサイコメトリ。物に触れてその過去をのぞき見ることができる」
唐突な物言いにも拓人の表情は変わらない。半年前の大異変以後、世の中の常識は大きく変化した。
「お母さん、間宮優衣さんはキミが生まれる前から児童養護施設の住み込みの保育士として休み無く働いていた。お父さんとの間に妹も設けて家族は幸せに暮らしていた。そうね」
「すごいね。なんでもわかっちゃうのか」
「ただの物――服とか愛用のアクセサリの場合はどんな思いが見えるかは運頼みね。でも、モナド症候群で脳を食われた場合は別。体全体に記憶や思いが浸透しているの。死体からも記憶は読めるけれど、生ける屍はそれがずっと長く保持されている」
「そうか……。燐侘さんは脳無しのヤツらが動かしている今の世界では通訳みたいなものだね」
「照れるじゃない。あと私のことは燐侘でいいよ」
拓人の理解の早さと正確さに燐侘は舌を巻いた。本来であれば小学校を卒業したばかりの年頃だが、「脳無し」と化した母親とこの半年を生き延びてきたのだ。心も人格も失っているとはいえ、脳無しがどのような存在なのか身をもって知ったのだ。
「ところでお母さんはともかく、キミはコンビニに並ぶレーションくらいしか食べてないでしょう?」
燐侘がそう言うと、その先の言葉を察した拓人の目は丸く見開かれている。
「ご期待に応えましょう! 極秘ルートから調達した食材で料理を作るからちょっと待ってね!」
ラブホテルのベッドルームには不釣り合いなほど大きな冷凍庫や、運び込んだ本格的な調理器具が自分以外の人の役に立つと思うと燐侘の心も浮き立った。
3
事の起こりは半年前の大雪の日。天気については関東圏だけの話だが、記録的な大雪と後にモナド症候群と呼ばれる大異変は、燐侘の中で深く結びついている。
パンデミックとも呼称されたモナド症候群の発症は、通常の感染爆発とは大きく様相を異にしていた。世界中の人間に一斉にスイッチが入ったように速やかに侵略は遂行され、ごく一部の生存者が気付いた時には人類のほぼ全てが脳を食われ生きた屍と化した。
映画やゲームのゾンビ物であれば、ここから知性を失い捕食者と化した隣人たちとの闘争が始まるわけだが、モナド症候群の発症者――通称脳無しは一見すると極端に無気力なだけの人間に見えた。
彼らは何らかの存在に脳から記憶を吸い上げられた上で脳細胞を食い尽くされた。それで終わりなら生命維持もできず死亡するだけだが、仮にモナドと名付けられた未知の存在は全身に広がり、肉体の「脳化」を引き起こす。体の操作はモナドが分散処理をしていると見られ、これが不死性のメカニズムとする説が生存者の間では唱えられている。
ここから先が脳無しのさらに奇妙なところだ。彼らは生前の行動をトレースし曲がりなりにも社会を存続させている。その一方で生存本能を失っており、社会維持に直結しないプライベートな日常生活を営まないことから、食事や怪我の手当などは放置される。モナドによって強化された身体は強靱で長期の行動にも耐えるものの、常に摩耗していくのはフィクションのゾンビとの数少ない共通点だ。
ただ、最近は得体の知れない缶詰を食らい、長持ちしている脳無しもいると燐侘は聞く。もともと食料生産や流通を担ってきた人々は、脳無しになっても仕事の真似事を続けていた。レーションと呼ばれる人間が食料としてかろうじて利用できるパッケージがそれだが、脳無し用のレーションを見たという噂もある。その中身が血液のゼリーのようなものだというのは、未確認のまことしやかな噂。
生前の行動をなぞり、社会を維持し続ける脳無しの行動原理はわかっていない。でもただ一つだけ燐侘にもわかることがある。このように世界を変えた存在には、人類に対する苛烈な悪意があるということだ。
食事中、不意に床が揺れる。
「アレかな」
燐侘手作りの形の歪んだハンバーグにフォークを入れつつ、視線はそらさずに拓人は言う。
「そうだね。結構大きいし近いかも。確認する」
燐侘は大型テレビをつけホテルの屋上に設置した監視カメラの映像を出す。カメラは巨大なミミズのような生物を映し出した。身をくねらせながら道玄坂をゆっくりと這い上がっている。ズームをかけると全身の白い鱗が日光を受けて輝いているのが見える。
「十メートル、いや十五メートルまで育ったかな。回収者のメクラトカゲだ。渋谷の主(ヌシ)だよ」
社会的な役割を果たしている脳無しは体を磨り減らしながらも自立的に行動する。一方、そうした役目を与えられなかった者は屋外に出て路上にしゃがみ込んでいることが多い。屋根のある快適なねぐらを求める人間の本能は失われ、日光と雨水を待つ植物のような存在と化している。
彼ら停滞した脳無しにとって、地中を掘り進み蠕動運動で前進するメクラトカゲは天敵だ。時折地上に現れ、動かない脳無しを一呑みにする。メクラトカゲが社会に不要な脳無しを食うことから回収者の名がついたが、そこにはもう一つの生態が織り込まれている。
太って動きの鈍いメクラトカゲを殺して腹を捌いたところ、卵胎生の体内の卵の中からまっさらな脳無しが見つかった。それが食われた脳無しと同一人物なのかはわかっていないが、減る一方の脳無しを再生産して補充するサイクルが回っているのは確かなことのようだった。
「アレって動かなくなったヤツらを食べてまた産むってホント?」
じっと映像を見ていた燐侘の考えを読み取ったかのように拓人は聞く。
「そう考えるしかない証拠はあるみたいね」
「それって脳無しが子供を作らないから?」
拓人の問いに燐侘は慎重に答える。
「脳無したちが仕事しかしないのは本当。それ以外の時間は無為に過ごしているのもよく見るとおり。もちろん個体差はあるし、さっきの警官みたいに意思をもって動いているように見えるのもいるけど」
「じゃあ、お母さんはちゃんと子供を産めるのかな」
答えにくい問いだった。脳無しが子供を産むなどという話は聞いたことが無いし、言われてみれば考えたことも無かった。
「さっきお腹の子は大丈夫って言ったわよね。でも脳無しになってしまった人間の体は根本から作り替えられていると聞くわ。なぜ赤ちゃんのことがわかったの?」
質問を返された拓人は、うつむいて考える素振りを見せてから、じっと燐侘の目を見た。
「僕のギフトは透視。壁やビル一つくらいなら向こうで何が起きているのかわかる」
嘘をついている目ではないし、その必要も無いと燐侘は感じた。半年前に脳無しにならず人のままでいられた生存者のなかには、こうした異能を持つ者が多くいる。
「だからわかるんだ。お母さんがはじめてお腹の妹のことを教えてくれたとき、僕にはお母さんとは別の命がそこにあるのが見えた。それは今も同じだし、あの子は外に出たいといつも言ってる」
「ええ、胎児の気持ちがわかるの?」
からかうような調子で燐侘が聞くと、拓人は照れくさそうな顔を見せた。
「水の中でも口を開けてなにか言おうとしてるんだ。だから生まれたいって言ってるのかなって」
「そうか。それで拓人は妹の願いを叶えたいわけだ」
大きくうなずき、少し考えてから拓人はおずおずと切り出した。
「……実は燐侘、頼みがあるんだ。お母さんがちゃんと妹を産めるのか僕にはわからない。僕たちをお医者さんに連れていってくれないかな」
若干十七歳の燐侘だが、堂に入ったサバイバルの立ち回りからか、あるいは元々人に与える印象からなのか、こうした依頼を受けるのはよくあることだった。
「いいよ。当てがあるわけじゃないけど」
素っ気なく引き受けると拓人は子供らしい歓声をあげた。
「本当! お礼とか何もできないけど本当にいいの?」
「子供と妊婦さんから見返りをもらう気はないよ。でも私が手助けして、もしもうまくいったら、今度は私のお願いを聞いて」
「でも僕にできることなんて……」
「いいって! 出世払いってやつ!」
4
当てはないと燐侘は言ったが消去法で対象を絞ることはできる。まず病院はほとんどだめだ。脳無しの医者や看護師はいるが肝心の患者が来ない。そこに人間が行ったところでまともな診療が受けられるわけもない。医者か看護師を見つけることができれば解決しそうだと燐侘は踏んだ。
「じゃあ謝礼は円山町の安全に使用できるホテルの情報で」
燐侘が駅構内の公衆電話を切ると、拓人は魔法でも見たかのような顔をしている。渋谷区周辺の生存者のリストは存外たやすく入手できた。渋谷の情報屋に電話をして名前と住所のリストを聞き出したのだ。
大異変以後、通信インフラが機能不全になって久しい。社会インフラが脳無しの手に渡ってからも、しばらくはネットや携帯端末が使えたが一週間も持たなかった。その後生存者の間で頼りにされたのが電話線に繋がっている固定電話だ。
渋谷の繁華街やビルの中にはいまでも公衆電話が設置されている。みなスマートフォンを持ち歩く時代でも、災害時には繋がらなくなる脆弱性を無線通信システムは抱えていた。そうした時でも専用の電話回線を用いた公衆電話は強い。人の集中する地域には、通信のライフラインとして公衆電話を残しておく定めがあるのかもしれなかった。
もっと言えば、もし電話番号もわからない時は郵便が使える。ローテクなシステムほど、文明を模倣しているだけの脳無しでも機能不全に陥らないというのは、この半年で生存者が得た教訓だ。
連日の真夏日の中、紙の地図に印をつけた生存者を探し、話を聞く日々が続いた。燐侘が先頭にたち、母親の手を引く拓人が周囲を警戒しながら続く。能無しの母嫌は一言も声を発することはないが、拓人や燐侘の指示には素直に従った。ビル街には往事と変わらないほどの脳無したちが行き交っているが、住宅地にまで出ると人影は途端に少なくなる。
妊婦の優衣がいなければ自転車なりバイクなりを使いたいところだった。車が使えればベストだったが事故が懸念された。歩いていても脳無しの多くは人間を認識していない節がある。コンビニの店員などは品出しや掃除こそするものの、接客という概念が抜け落ちている。
自動車も脳無しだけの場合は実によく統制されているが、そこに人間の運転する車が紛れ込むと認識の乱れが起こるらしく、こちらが突破していくくらいの勢いでいかないとむしろ危ない。交通量の多い今回のエリアでは徒歩が一番確実な移動手段だった。
リストはなかなか正確で、二件に一件以上の確率で相手を探し出すことができた。家族や数人の集団で暮らしている者もいたが、都心では一人で暮らしている者も多かった。人間同士で助け合わずとも、脳無したちの社会に寄生して暮らすことが可能だからだ。
人間のセンスとはかけ離れていても、加工食品は生産され流通していたし、大きな冷凍倉庫には解凍前の肉や魚が山ほど積まれている。生鮮食料品を諦めれば単身の都市生活者にとっては悪くない環境だ。
他の生存者とコンタクトを取る時は燐侘が一人で出向き、拓人と優衣は姿を見せず側で待機した。脳無しを連れ歩いている時点で警戒されることが懸念されたからだ。
渋谷周辺の生存者の年代は概ね若かった。小さな子供のいる家庭もあったが、大異変以後に出会い一緒に暮らし始めたということだった。燐侘は家族全員が脳無しにならず生き残ったという話はこれまでに聞いたことが無い。生存確率は数万人に一人と推定されている。東京のようなメガシティであれば歩いて行ける距離に他の生存者がいる確率は高い。しかし過疎地では世界で生き残ったのは自分一人と思い込んでいる生存者がいてもおかしくはない。
「医学部生のいるグループがあると聞いています」
手がかりをつかんだのは四十歳前後に見える女性からだった。加納と名乗った女は元からの住居だという高層マンションに、ペットの大型犬と暮らしていた。いわゆる富裕層の家系らしく、大異変の直後にクローズドな情報網に触れることができたと言う。今は情報網そのものにはアクセスできないが、そのときの縁で比較的安定した暮らしができていると言う。
グループの連絡先は情報屋のリストにはないものだったが、情報屋の方もどこまで情報を出したかについては触れていない。安全なホテルの情報に見合うだけのものが得られたということだろうと燐侘は一人納得した。
「医学部生はお医者さんじゃないんだよね」
単刀直入に拓人は確認する。
「ドラマで見たことあるけど、病院で研修してるくらいの人なら大丈夫かも……ね。でも本物のお医者さんを知ってるかもしれないし聞いてみようよ」
5
加納は医学生のいるグループの電話番号も教えてくれた。彼らは渋谷再開発区画の真新しい地下街を拠点にしているということだった。まだ生きている固定電話を確保できているのだろう。燐侘がコールすると若い男性が出た。医者を探していると伝えると力になれるかもしれないと言う。電話が繋がった時点で情報を教えてくれるならそれが一番なのだが、向こうも見ず知らずの人間に重要な情報を渡せないということなのかもしれなかった。
待ち合わせ場所は広い地下駐車場が指定された。これでは拓人と優衣を近くにおいたまま姿を隠すことは難しい。燐侘は一人だけで話を聞きに行くことも提案したが、燐侘が戻らなかった場合拓人たちのその後の安全が確保できない。優衣が同席するなら脳無し特有の無表情な顔が露呈する。優衣にはパーカーのフードを深くかぶってもらい、拓人とともに燐侘の真後ろに立って情報交換に臨むこととした。
電話に出た男は榊(さかき)という名前だった。大異変の前は医学部四年生だったと言う。燐侘にはよくわからないが、まだ実践的な経験は積んでいないとのことだった。
「それで、医者を探していらっしゃるとか」
榊は育ちの良さそうな丁寧な口調で話す。燐侘はきっと親も医者だったんだろうと偏見混じりの感想を抱く。もう一人、榊の横に立つ長身の男は口を結んだまましゃべらない。もっともこちらも女子高生に十三歳の少年に母親然とした年頃の女性という、今では珍しい取り合わせだ。どちらかと言えば若い者同士で地下街を管理して拠点にしているグループの方が合理的だと言えた。
「ええ。私たちは旅の道連れです。この女性が出産を控えているので、安全な場所で適切な措置を受けたい。それだけです」
燐侘は明かせる情報はごまかすことなく伝えた。あとは先方の出方次第。
「なるほど! よくわかりました。こんなご時世です。出産と一口に言っても不安になるでしょう。それに生存者から新しい世代が生まれるのは喜ばしいことです」
「じゃあ、誰か心当たりが?」
榊の言葉に自然燐侘の口調にも期待がにじむ。
「ええ、心当たりはあります。あなた達がそちらに迷惑をかけるような方ではないこともわかりました」
榊は一度言葉を切り、改めて続けた。
「ただ条件として私たちのグループに入っていただきたい。力のある生存者コミュニティはこの東京でもまだ少ない。特に健康な女性は貴重だ」
榊の紳士的な振る舞いの裏が透けた。燐侘はもちろん拓人もこの男の本性を垣間見た。このグループは極限状況下で自分たちに都合の良い支配体制を作ろうとしている。そして燐侘たちは仲間ではなく彼らの奴隷として求められている。
(逃げるわよ)
燐侘は背後の拓人に囁く。
「どうかしましたか?」
榊の問いに何でもないとかぶりを振り、互いの合意を確かめたいと理由をつけ握手を求めた。笑顔で応じる榊と手が触れた。ほぼ確信に近い予感はより下劣な内容だった。榊の深層意識を読んだ燐侘のサイコメトリは告げた。
「拓人! 後ろの出口は?」
事前にこの駐車場の出入り口は確認済みだ。車の出入りする路面に面したゲート以外に、地下街に続く通路が左右と背後にある。ゲートは正面の榊たちの背後にあった。
「見えた。左右は閉まってる。開くかどうかはわからない。後ろは開いてるけど……二人来る! どっちも男!」
「挟み撃ちってわけね」
態度を急変させた燐侘たちに榊も本性を隠さなくなる。
「そんな慌てなくていい。医者にかかるのはここで一晩過ごしてからでも遅くないだろう」
榊が顎をしゃくると、燐侘たちを取り押さえようとでもいうのか大柄な方の男がにじりよってくる。
「逃げても挟み撃ちになるだけ。正面突破で行くわよ」
燐侘はバックサイドホルスターからすでに携帯していた無骨な大型拳銃を引き抜く。
「ユーザー認証、セイフティ解除」
「銃だと! おい、やめろ!」
榊が叫び大柄な男も思わず後じさる。かまわず燐侘はシークエンスを進める。
「重力子誘導弾、出力下限値で射出」
弾丸は燐侘のリクエスト通り拳銃から射出された。榊たちの足下にめり込みコンクリートの床に円形の亀裂を走らせる。
「出力ホールド」
燐侘の指示(コマンド)を受けて、弾丸の撃ち込まれた領域は異常な力場を保持し続ける。足下からの強力な重力に耐えきれず、榊ともう一人の男は膝をつき床に這いつくばる。
「燐侘、この銃は……」
「警官の頭を吹っ飛ばすだけじゃないのよ。こんな使い方もできるの」
燐侘は抵抗できない男たちに触れ、探り当てた武装を解除する。
「ライプニッツ、サイコメトリ・ログを同期して登録」
拳銃にライプニッツと呼びかけ、サイコメトリで得た情報をグリップのセンサーに読み取らせる。
「これでどこへ逃げようともどれだけ潜ろうとも、この銃(ライプニッツ)の弾丸は必ず当たる。邪念は捨てて」
「どうした。もう片付けちまったのか」
しびれを切らしたか、男たちにとっては最悪のタイミングで待ち伏せ組の二人が背後から現れた。
「やめろ! こいつら銃を――」
榊の叫び声が燐侘の手にする拳銃へ視線を誘導した。駆けつけた一人が銃を引き抜こうとする。
おもむろに燐侘は拳銃を上に向け弾丸を射出する。天井すれすれで停止した重力子弾は燐侘の意図通りコンクリートの床を幅二メートルほど「引き上げ」即席の壁で後続の二人を封じ込める。
「くだらない茶番はこれで終わり。心当たりの医者のことは覚えてる? もう思い出した?」
燐侘の問いかけに榊はがくがくと首を縦に振る。
「そう。じゃあ最後に一発!」
燐侘は榊の頬を力の限りひっぱたき意識にあがっていた「心当たり」を入手した。
6
東京都下。府中市で医院を開業している中野奈々子医師を訪ねたのは翌日のことになる。渋谷からは距離があるため、初めての電車移動となった。
脳無したちには職場はあってもプライベートは存在しない。そのため帰るべき家を持つ者は少ない。よって通勤する者もなく旅客電車は例によって人類社会の真似事に過ぎない。それでも一時間に一本ほどの電車が往来している。
中野医院はもともと小児科医院だったが、大異変以後は継続的な加療を受けなければならない近隣の生存者の寄り合い所帯となっている。中野医師は医療全般に対する知識と経験に加え、体調を目で見ることのできる共感覚を持っていた。以前はオカルトじみたことには口をつぐんでいたが、ギフトを持つ生存者が存在感を増すほどに自身の持つ共感覚も医療の手段として受け入れている。
中野医師が生存者に含まれていたことは世界にとって僥倖だったが、看護師も薬剤師もまだ見つけられないでいる。そこで中野医師は脳無しとなったそれまで雇用していた看護師をそのまま勤務させている。会話はできずとも必要な措置は看護師だった頃の記憶で対応できる。人間と脳無しの共存する姿がそこにはあった。
「じゃあ私はもう行くね」
玄関まで見送りに来た拓人と中野医師、そして優衣に笑顔を向ける燐侘。
中野医師にとっても脳無しの優衣の出産は未知数のものだ。それでも拓人と燐侘の願いを医師は快く引き受けた。
優衣は児童養護施設の保育士として休み無く働いていた生活をトレースしているため、脳無しとなっても日常生活にさほど破綻を来していないのだと燐侘は推測している。そしてこの医院の人々と拓人の支えがあれば、産後に赤ん坊を育て上げることは難しくないように思えるのだ。
「燐侘はさ、またここに戻ってくる?」
拓人の本心ではまだ燐侘にここに残ってほしい。一緒にいてほしい。でもそれは燐侘への甘えに過ぎず、彼女の役割を縛るものだとも理解していた。
「言ったでしょ。私は拓人と優衣をお医者さんの元まで送り届けた。その見返りは出世払いだって」
「シュッセバライのために何をすればいいのかまだわからないけど……母さんと妹は僕が守る。そしてこの場所をたくさんの人が安心できる場所にするよ」
「なんだよわかってんじゃん」
拓人の額を指先で軽く小突くと、燐侘は大きなメッセンジャーバッグを肩に掛け直しそのまま医院を出て歩き出す。振り返りはしない。次はこの場所を目にしたらまっすぐ駆け寄るのだから。
プロット『恋ガチャのレアリティ~無星少女と悪運憑きの純愛確率~』
●タイトル案
『恋ガチャのレアリティ~無星少女と悪運憑きの純愛確率~』
●ログライン
超悪運の少年が異世界転生後ツキを呼ぶスキルを得たものの扱いに苦労し、試行錯誤の末に自分の人生を肯定することと周囲からの好意を素直に受け取ることを学び、赤い糸で結ばれていたヒロインとハッピーエンドを迎える異世界ラブコメディ。
●企画意図
・最初の召喚のアクシデントで転生時の死亡事件から救った少女と再開し、サブヒロインとの多角関係を交えたラブコメのドキドキを楽しませる
・《確率操作》スキルで運をつかみ成功する主人公の様子を見せて、共に高揚感を得ることで楽しませる
・どれだけ成功確率を上げられたとしても、何かをつかむためには一歩先に足を踏み出す勇気が必要なことを示し、読者の行動の後押しをすることで読後感を良いものとする
●主要登場人物
◆間宮陸(まみや りく) 男 十六歳 高校一年生 168センチ
・転生前の生育環境こそ平凡だったものの、何をしても失敗ばかりの人生を送ったため自己評価も将来に対する期待値も非常に低かった
・転生後「エリック・マグナス」と名付けられ、五歳の誕生日に前世の記憶を取り戻す。以降は間宮陸としての人格が主となるが、エリックの純真無垢な人格に影響を受け、前世からの裏表のない実直な性格に加え、どんな失敗からでも何度でも立ち上がるポジティブマインドを得た
・転生後の世界では五歳で生来の天分(ギフト)が裁定され将来の職業が決まる。「召喚士」のギフトを得た陸は、村の老魔女のもと技術を身に付け召喚士の資格を得るため旅に出る
・召喚士というファンタジーならではの職業に夢を抱き、第二の人生では幸せをつかみたいと考えている
◆川瀬翠(かわせ すい) 女 十六歳 高校一年生 158センチ
・陸が最初に召喚した人間の少女だが、確率操作スキルが致命的失敗(ファンブル)の目を出したため、通常はモンスターが召喚されるところ本来あり得ない結果となった
・実際には陸が命を賭して通り魔から助けた少女で、その縁で魂だけが地球から召喚された特殊な転生者。本来の肉体も分割された魂を持ち地球で生活している
・翠は召喚の際に前世の記憶を失っており、真名(本来の名前)がわからないまま、仮名として「ステラ・ラズリ」との名を与えられ陸と絶対忠誠の契約を結んでいる
・剣士の天分をもって陸に仕え成長することに喜びを感じその在り方に迷いは無いが、自分が何者なのかという疑問を抱え、陸にその答えを示してほしいと願っている
◆ラブカ・アスタロト 女 ?歳 見た目は人間の幼児 90センチ
・陸を異世界に転生させた自称「天使」。深海鮫ラブカの着ぐるみに身を包み宙に浮かぶ幼い少女の姿をとるが、陸以外がその存在を感じ取ることは基本できない
・正体は地球に駐在する高次元存在で、並行世界管理官の一人であることが本人のモノローグで読者には説明されるが、登場人物はそのことを知らない
・前世の陸の悪運はラブカの設定ミスであり、補償と称して過失を隠蔽するために独断で転生させ、召喚士の天分と《確率操作》スキルを与え密かに陸をサポートする
◆ドロレス・アンテプリマ 女 29歳 容姿は十歳ほどの子供 140センチ
・もう一人の地球からの転生者で取り替え子(チェンジリング)のダークエルフとして生まれたため、年齢に比して容姿は幼い(ことを作中で度々ツッコまれる)
・この異世界はドロレスのためのゲームとして作られたものと、転生を手引きした高次元存在「ロス・モーロック」に吹き込まれており、やっと「対戦相手」の陸が現れたことで鬱憤晴らしがてら状況を混乱に導いている
・また、このゲームで勝利条件を達成せずに死ぬと、二度と生まれ変われない魂の牢獄に繋がれると脅されてもいる
・正体を隠して純真な少年「ドロテオ」を装い陸の仲間に入り込み、誘惑者として女性陣を中心に内部分裂をはかるが、陸たちの結束は固くかえって惨めになり泣きながら帰る。強気の暴君気質だが、その心中には決して得られない他人への信頼を渇望する脆さがある
◆ロス・モーロック 男 ?歳 見た目は二十代後半 182センチ
・太陽系全域を担当する管理主任(アドミニストレーター)で、高次元存在としてラブカの直属の上司にあたる
・ラブカのミスとそれを取り繕う行動を知りつつ泳がせ、人類の科学技術の発展にともない破滅に向かう地球と、多くの亜人類が平和に暮らしているものの、特殊化の末に進化の袋小路に入りゆるやかに衰退している並行世界の地球(異世界)を「混血」させて双方を救う目的で動いている
・川瀬翠の召喚にも一枚噛んでおり、転生前の記憶を封じたのはロスの仕業
・ドロレスを仕事の道具として扱っているものの、人類の守護者として心から甘やかしてもいる
●世界観(舞台設定/世界設定/ギミック)
◆舞台設定
・転生前は現代日本。後年古びないように2023年時点で最新のもの(VR機器など)は出さない。
・転生後の異世界はゲーム的な中近世風ファンタジー世界。その中の極東日本にあたる統亜人類皇国、坂東地方(関東)武蔵国の中心都市、彩世(あやせ)の町が旅立ちの土地。主人公が向かう首都は大和地方(奈良)の飛鳥京(あすかきょう)
◆世界設定
・異世界は厳密には並行世界の地球。2世紀前半に歴史の分岐点があり、ローマ帝国と漢帝国(後漢)がユーラシア大陸東西の覇権国家として立ち、双方の交流から10世紀には科学技術は現代文明を凌ぐレベルまで発達したが、並行して発達した魔法が投入された魔法大戦で科学技術の多くは失われている
・魔法大戦の結果、戦線に投じられたモンスターが跋扈し衰退した科学に魔法が取って代わるファンタジー世界が成立した。戦闘種族として作り替えられた人類は、多くの亜人種へと分化して厳しい環境に適応している
・統亜人類皇国ではひらがなカタカナのみが普及しており、貴族や学者、魔術士などごくわずかな者しか漢字を用いない。漢字の読み書きができることは、主人公が周囲から一目置かれる一因となる
◆ギミック
・親と本人しか知らない真名(マナ)を他人に知られることは生殺与奪の権を奪われるのに等しく、誰もが真名を隠し通称の仮名(カナ)を名乗る
・召喚士が使役する対象は「継承者(エクステンド)」と呼ばれ、強力なモンスターや精霊の魂を受肉させたもの。エクステンドの真名を封じ、仮名を与えることで、再定義(オーバーライド)と呼ばれる絶対忠誠の契約を結ぶ。一方、真名を思い出すことでエクステンドは召喚の呪縛から逃れることが可能
・《確率操作》スキルは行動の成功率を百分率(パーセント)で知ることができ、事前に10面ダイスを2個振ることで成功する確率を上乗せするもの。数パーセントの見込みしかない試みでも出目次第では勝ち筋が見え、100パーセントを上回ればどのような奇蹟も実現する。ただしダイス目が二つともゼロの場合、致命的失敗(ファンブル)となり想定外の事態を招く
●全体あらすじ
「間宮陸」は異世界転生し「ラブカ」から前世の超悪運体質の見返りに《確率操作》スキルを得る。多くの者は親の職業を継ぐギフトの裁定で、召喚士の運命が示された陸は村で修行を積み資格を得るため十六歳で首都へ向かう。
召喚士資格を得た陸は、初めての実召喚でスキルを用いるが、振ったダイスでファンブルを出した結果エクステンドとして記憶喪失の人間の少女を召喚する。召喚失敗として退去させるのもしのびなく「ステラ」の名でオーバーライドし、絶対忠誠の契約を結ぶ。
駆け出しの召喚士がキャリアを積むためには、強力なエクステンドを複数従えている必要がある。陸は剣士の適性があったステラと共に、召喚士ギルドから「触媒」探しのクエストを引き受けたが、町を出た途端にモンスターの群れに取り囲まれる。破れかぶれで召喚した巨人の子供「カリン」♀の伸縮自在な体の能力に助けられる。
旅を続ける中で、商業都市では猫又の「クローネ」♀、地下迷宮では吸血鬼の「ドラウグ」♂、旧文明の廃墟では機巧端末(アンドロイド)のメイド「アリソン」♀、雪山では雷竜(サンダードラゴン)の「ライコウ」♂、大森林ではハイエルフの「ドロテオ」♂などの仲間を召喚し陸は力をつけていく(ドロテオはドロレスが召喚に介入しハイエルフを装った偽の存在)。
召喚時の刷り込みで陸にべったりと懐くカリン、他の仲間より役に立っていないのではとのコンプレックスを受け入れてくれた陸に恋心を抱くクローネ、自分の出自もわからないまま陸に命を捧げてもいいという衝動を抱きつつ真摯に生きるステラ。彼女たちの多角関係とそれを取り巻く仲間のドラマが旅の中で展開する。
突然現れた反乱勢力に皇国の傭兵として立ち向かう陸たち。相手は強大なエクステンドを多数従えた召喚士との噂が流れるなか、ただ命令に従っているだけで、同じ立場のエクステンド相手に自分たちが敵対していいのか悩むステラ。一方ドロテオは自分たち仮初めの肉体を持つだけのエクステンドに自由意志などないと主張しパーティに不和が広がるが、最終的にドロテオの意見は退けられ立場を無くしたドロテオは失踪する。
敵の本拠地に辿り着いた陸たちは、ドロテオの正体が反乱勢力の首領ドロレスだったと知る。ドロレスは情報収集をしつつ陸たちの内部分裂をはかったが、その結束の固さにすぐさま叩くしかないと判断し速攻をしかけると決めた。
敵味方のエクステンドが倒れていく中、偽装していたとはいえ一度はドロテオを召喚したことでドロテアの真名の手がかりをつかんでいた陸は、真名を用いた拘束魔術で戦況の決着をドロレスとの一対一の対決に持ち込む。しかし実戦経験と実力の差は埋めがたく、陸はドロレスに倒される。
しかし、それで陸との絶対忠誠の契約が解けた仲間たちは、満身創痍のなか自身の判断でドロレスに決死の戦いを挑む。予想外の展開に隙を見せたドロレスはステラの剣を受けて倒れる。実のところ陸はドロレスの最後の一太刀を受ける際に、一度死んでも甦るという0パーセントの賭けにスキルを行使していた。蘇生後、絶対成功の100の目を出していた事を知る陸。
通常、絶対忠誠の契約が破れエクステンドの退去に失敗した召喚術士は、相手の真名を知るがゆえにほぼ必ず裏切られ殺される。しかし、陸は契約無しでエクステンドを仲間とした、初めての召喚術士の一歩を踏み出すことになる。
一方、前世を思いだしたステラは自分が地球人の川瀬翠であること、命の恩人の陸は幼いころにもイジメから体を張って守ろうとしてくれた幼馴染みだったことを思いだした。前世の翠は陸の死後その通夜に赴き、小学生以来連絡の取れなかった陸が命の恩人だと知った。ステラは川瀬翠として間宮陸をずっと慕っていたと告白する。
以上
ファフロツキーズ!
『ファフロツキーズ!』
俺たちは不機嫌だった。野良犬のように腹を空かしていた。
ハンドルを握る友人はセブンスターをふかしながら、延々と続く一本道を時速八十キロで流している。ドライブの始めにたんまりガソリンを食わせた中古のスターレットのエンジンはすこぶる快調だ。古いカーステレオの音の割れたスピーカーからは、乾いた音声が車内を満たしている。
左手に日本海、右手に切り立った崖。日本最北端を目指す国道232号線の単調な光景は脳髄を麻痺させる。交通信号のない道がもう数十キロは続いていた。
「さっきの町でなにか食っておくんだったな」
「ああ」と俺がひねり出した声は切実な響きをともなった。
ところどころにドライブインやみやげ屋が見えるが、ことごとく店仕舞いしている。オフシーズンの日曜昼下がり、ドライバー相手に商売をしようという者はいないようだった。
とにかくなにか腹に収めたかった。普段の生活で徒歩圏内にコンビニがいくらもある有り難さが身に染みた。
「マナでも降ってこないものかね」ふと口をついた。
「聖書の話か」
「そう、空から降ってくる甘露」
「どんなもんだろう」
「カルメ焼きみたいなもんじゃないかな」
俺の適当なこたえに、我が友人は大きくうなずいている。
「降ってくるといえば」友人は煙草をもみ消すと言った。
「蛙の雨が降る理由を知っているか?」
たまに外信が伝える奇妙なニュース。豪雨が明けると地面には新鮮な魚や生きている蛙、巨大な氷塊などが散乱しているという。
「蛙ってのは湿った場所に棲むだろう。それが雨が降らない日が続くと、泥の中に穴を掘って土の中に隠れてしまう。それが久しぶりの雨で一斉に這い出してくるから、雨上がりの水たまりには蛙がゴロゴロしてるってわけさ」
胡散臭い話だとは思ったが、反論するのも面倒くさかった。
「じゃあ、魚は? 降るのは蛙ばかりじゃないだろう」
「ああ、魚か……」
友人は新しい煙草を口にくわえると、火をつけず頭の振りでBGMのリズムを取っている。こういう時は何も考えていないか、せいぜいくだらないことを考えているだけだと俺は知っていた。
「やっぱり竜巻じゃないかな」俺は言った。
「竜巻が海や池から水ごと魚を吸い上げて陸地に落とすのさ」
「アレみたいにか」
友人がアゴで海の方を指した。驚くべき事にクルマに併走するようにして竜巻が迫ってきていた。巨大な竜巻は浜辺の簡便な建築物を破壊し巻き上げ、猛然とこちらを追ってくる。
「ちょっと、お前、いつから気づいていた!」
「いまさっき」
友人はアクセルを踏めるだけ踏んでいるが、このクルマでは出せるスピードにも限界がある。あえなくクルマごと竜巻に巻きこまれた。車輪が宙に浮く嫌な感覚。
「うわーっ!」
気がつくとガードレールに横付けするようにしてクルマは停止していた。奇跡的に二人とも怪我は無かった。
俺はシートベルトを外すとふらふらと外に出た。竜巻は一向に衰える気配はなく、すでに遥か先を猛進していた。
「やれやれ、助かったな」
友人も憔悴した顔で外に出てくる。腰のポケットを探りライターを出すと、咥え煙草に火をつけた。と、何か軽い物がクルマのボンネットに当たり跳ね返ってきた。手元に落ちたそれを拾い上げる。洗濯挟み。友人と顔を見合わせる。
途端にザーッという音とともに何かが降ってきた。魚。カレイの干物に洗濯挟み。友人が言った。「そういや通り過ぎた漁村で干してたな」
ああ、主は我らに糧を与え給いき。
起き抜けのガンナー
『起き抜けのガンナー』
一昨日までの私には思いも寄らないことだった。昨日仕事を馘(くび)になった。
習慣で起床時間の数分前には目覚めていた。いつものように静かに目覚まし時計のアラームを止める。
枕に頭を預けたまま、目を瞑ると昨日の情景がよみがえる。解雇を言い渡した上司たちは、先週私の誕生日があったことなど知りはしないだろう。年度の区切りで、契約社員の女性事務員の、一番年かさだった私を切っただけだ。すでに決定済みの事項を告げる淡々とした、しかしどこかしら芝居じみた声音。急な話で心苦しいんだが、と言う部長の口元に貼り付いた薄ら笑い。
ベッドを抜け出すと、ボリュームを小さく絞ったテレビをつけ、カーテンを開けた。薄曇りの空。レーズンパンとフルーツ入りヨーグルトと野菜ジュースだけの簡単な朝食を摂ると、やることが無くなった。仕事用の薄いメイクも、つま先のきついパンプスに足をすべり込ませる必要もない。落ち着きのない開放感。
仰向けにベッドに身を投げ出し天井を見つめる。いつもならもう家を出ている時間。天気予報を告げるテレビ音声に混じって、登校中の子供たちの声が耳に入る。マンション二階の窓の外は、低い生け垣を挟んで住宅街の路地になっている。朝はそれなりに人通りが多い。革靴がアスファルトにあたるコツコツという音がやけに耳に響く。
仕事なんて、と小さく声に出して口ごもる。たかが仕事を馘になっただけで、私は思いがけないほどの喪失感に打ちのめされていた。自分はいらない人間だと判断された。それが無性に悲しく腹立たしかった。今まで押さえ込んでいた感情から抽出される様に、悔しさが込み上げる。
上を向いたまま、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。眉一つ動かさず、悲しそうな顔もせず、無表情のまま泣いていた。
まるで自動的に涙が溢れる一方、心はクリアになっていった。涙の鎮静作用は、速やかに大脳皮質に作用した。三十歳になった自分のことも、これまでの会社への貢献というものも、田舎の家族のことも、全てが同じ卓の駒のように感じられた。冷静に駒の動きを読んで、詰んでしまったからもうこれでお仕舞い。もう一人の私がそう告げる。
涙をぬぐうと、自然とくびをのけぞらせる格好になった。窓の外には上下逆転した世界。向かいのマンションの外壁と電信柱と電線のカラス。いまにして思うとなぜそんなことをしようと思ったのかわからない。私は右手で指鉄砲を作るとカラスを「ばん」と撃った。
その瞬間、カラスは視界の上へストンと落ちた。舞い降りるというのではなく、突然支えるものが無くなったように、重力そのままに落ちた。路上からは道行く人々の驚きの声が聞こえる。
ガバッと起き上がるとベランダを開けて地上を見る。見慣れない黒い塊が地面にあった。人々は遠巻きにそれを眺め、決して近づこうとしない。
室内に戻り、試みにテーブルの上に出しっぱなしだったマグカップを撃った。「ばん」という声にカキンという音が被さった。マグカップはテーブルの上で三回転すると、縦に綺麗に二分割された。古いテレビはブツンという音とともに電源が落ちた。ボックスティッシュは華々しく紙吹雪を吹き上げた。
私は今、右手にかつて無い充実感を感じている。丁寧にメイクを仕上げ、春物のブーツとコートでキメた武装は完璧だ。まだ有効期限の切れていないIC定期券をポケットに、向かうのは昨日までの職場。私はアドレナリンのもたらす高揚感を抑えることができない。この奇跡の次の標的を求めて、軽やかに街に歩み出る。
帰路
『帰路』
予備校から外に出ると、思った以上に外気は冷え込んでいた。
十一月に入ると日の入りは急速に早くなり、授業から解放される頃にはすっかり暗くなっている。
「今日はゲーセンどうする?」
タカキに声をかけたが返事がない。
「なあ、ゲーセン寄らないのかよ」
背の高いタカキに向かって顔を上げ、語気を強める。
「……あぁ、今日はパス」
「じゃあ、オレもいいわ」
そのまま二人で黙々と歩く。
駅に向かう道はちょっとした繁華街になっていて、街頭のイルミネーションが、零下に近づいた空気に比例するかのように輝きを増していた。
と、不意にタカキがオレの肩を抱き寄せた。ふざけているのかと思いきや、そのまま体を密着させて歩く羽目になった。
「ちょ、何だよ!」
タカキの手を振り払い、前へ回り込む。
「あ、ヒロか! スマン」
突然オレが現れでもしたかのような表情でタカキが謝る。
「てめえ、さては彼女とでも勘違いしたんだろう」
「うぅ、ゴメン。サキと肩の位置が同じくらいなもんだから、つい」
オレは一度だけ会ったことのある、短大生の彼女の姿を思い浮かべた。顔はあまり覚えていない。背の高さは確かにオレと同じくらいだった。
「呆けてるんじゃないよ、バカ」
笑って冷やかすつもりが、苛ついた声になった。突然沸いた胸が締め付けられるような怒りを、自分でも抑えきれなかった。
「怒ってんのか?」
「んなわけ無いだろ」
「そうか」
再び訪れた沈黙は気まずい雰囲気となった。
タカキの顔をのぞき見るが、考え事をしているような表情から感情は読めなかった。
「なあ、頼みがあるんだけど」
しばらくして、唐突にタカキが切り出す。
「なんだよ」
「今度の日曜、お前の寮の部屋貸してくれないか」
「別に……いいけど、なんだよ」
「ほら、お前の所、女の子入れてもお咎め無しだろ。ホテル代もかさんでさ……」
瞬間、二人がベッドを使っている光景を想像して、一気に頭に血が上った。
「ざけんな。童貞なめんな」
じろりとにらみ、言い捨てて進行方向を見据えた。
怒りというより、息苦しいような切ない気持ちになった。自分の不寛容に理由をつけられないまま、オレは早足で歩いた。タカキが追いすがる声が聞こえた。
魔王
『魔王』
枯れ果てた谷底に巨大な火トカゲの姿を認めたのは、そろそろ陽も暮れようかという時分だった。一人きりの従者に荷と背後を守らせ、俺は急斜面を駆け下った。火トカゲは若い女を襲っていた。滅多なことでは人里までは降りてこないが、この高原地帯では人間族の天敵の一つだった。
近寄って、崖際のくぼみに追い詰められていたのは穴小人の女だった。独特の様式がある髪の結い上げ方と、毛皮を多用した衣装でそれとわかる。人間族の娘のような風貌だが、その倍以上の寿命を持つ穴小人の年齢は見かけでは推し量れないところがある。
ともあれ、火トカゲの背後を取った俺に、女もトカゲも気がついていないようだった。片方は恐怖のあまり頭を抱えてうずくまっており、片方は目先の獲物に気を取られて周囲に対する警戒を怠っているようだった。事実、体高が大人の腰ほどもあるこの巨大な爬虫類にとって、留意すべき敵などはまずいないのだった。
通常、人が火トカゲを狩る際は、鉄で編んだ鈎付きロープを用い数人がかりで取り押さえる。しかし、身の危険を顧みないのならば、急所を突くというやり方もある。俺は腰にはいた剣を抜き、今まさに娘に噛み付こうとした口を狙った。火トカゲの無表情な目に、黒い皮鎧に身を包んだ己の姿が映った。
火トカゲの急所は頸の付け根だ。ただし、その周囲は鋼の剣すら容易に通さない紅く固い鱗に覆われている。唯一、顎の下、白くぶよぶよとした箇所からのみ、急所を容易に切り裂けるのだった。
姿勢を低くした俺は剣を逆手に持ち替え、火トカゲの顎の下に滑り込むと一気に剣を突き上げた。鮮血が吹き出し体を赤く染める。剣をさらに一段奥へ差し込むと、腱を断ち切るような感触があった。四肢を震わせ、そのままの姿勢でこの巨大な四足獣は絶命していた。剣を引き抜くと、だらりと火トカゲの躰は伸びた。
「あ……りがとう……ございます」
いつまでも襲いかかってこない火トカゲの牙に、おそるおそる目を開けた穴小人の女は事情を察したらしい。すっかり腰を抜かしているのか、しどけない姿勢のままで俺に声をかけてきた。火トカゲの血を浴びた凄惨な格好で、剣の血糊を拭っていた俺はこたえる。
「なに、お前の為にしたことではない」まだ目線を合わせず俺は呟いた。
「俺の都合でしたまでのことだ」
剣を地面に置き、穴小人の女に近寄る。背丈は人間族の子供ほどしかないが、その体は充分に成熟していることが見て取れた。従者が背後に追いついた。俺は皮鎧を外しながら女の前に立った。女の目にわずかな怯えの色が見える。女の視点に合わせて身をかがめながら静かに告げる。
「俺の名はグレンディン。魔王と人間族の母の間に生まれた不義の子だ」
俺は女の口を手で塞ぐと、そのまま地に押し倒した。女はあらがうような素振りを見せたが恐怖のためか為されるがままだ。女を組み伏せ荒々しく衣服を剥ぐ。大人でも人間族の少女のような姿態。
下腹部へと手を回すと体毛が濃い。しかしベルベットのような手触りが劣情を誘う。火トカゲに襲われた際に漏らしたのか、秘部はしっとりと濡れていた。体毛の間から赤く覗く一点に俺は欲望を突き入れた。破瓜の血が流れる。
「娘よ、俺の子を身籠もれ。そして父の名を言い聞かせろ。魔族への恨みを忘れるな」
呪いの言葉を言い聞かせながら、俺は自らの子らが己と父である魔王を討ち滅ぼす日を夢想した。穴小人の娘の目に確かな憎しみの色を見て取った時、満足とともに俺は果てた。
「あのままでいいのですか」従者が控えめに問いかける。
穴小人の娘をそのまま置き去りにし、俺達はその場を立ち去った。
「すぐそばまで仲間が来ていた。ただ火トカゲに手を出せなかっただけだ」
火トカゲをそのままにしておいたのは彼らに対する見返りの意味もあった。固く赤い火トカゲの鱗は市場で高く取引される。
娘は仲間に助け出され、俺を憎むだろう。その確かな感触が今の俺に生を感じさせた。
鬼頭魚
『鬼頭魚』
餌を付けるのも馬鹿らしくなる釣果だった。イソメだけでカレイとセイゴが面白いようにかかった。俺は形の良いセイゴを残し、あとは海に放った。
そろそろ午後二時も過ぎる。腹も減った。寒空の中、人気のない突堤でセイゴを三枚に下ろし、暖をとっていた一斗缶のストーブの上に鉄板を渡してホイル焼きにする。スズキの幼魚であるセイゴは焼いても煮ても旨い。釣り宿で用意して貰った握り飯で昼食にする。
S県S町のはずれ、I……というこの漁村まで釣行に来たのは元同僚、Nの話を思い出したからだ。Nはこの漁村の出身だ。東京に出てきて、俺と同じ会社で働いていた。どこか眠そうな目つきの風采の上がらない奴だったが、人と話すより釣りの好きな俺とはなぜかウマがあった。
そのNが突然会社を辞めたのは一年以上前の事だ。どうも漁業を続けている実家に不幸があったらしい。
「いまどき跡取りという訳じゃないんですが」と、言いつつも実家から連絡のあった翌日にはきっぱりと会社を辞めていった。Nが出身地の話をしたのは最後に会ったときのことだった。
「Tさんになら気に入ってもらえると思って……」
妙にもったいぶってNは郷里の集落のことを話した。明治の頃までは鉱山でおおいに栄えた港町だったらしいが、今は最寄りの鉄道駅から路線バスで一時間以上かかる過疎の地であること。観光名所もなく、ほぼ自給自足の漁業の町であること。ただ、世間には知られていない絶好の釣りスポットであること。そんなことをボソボソと話した。
大きなプロジェクトが終わりまとまった休みの取れた俺は、不意にNの話を思い出した。独身の気楽さで翌日には一日一往復のバスに乗って、くだんのIという集落に降り立っていた。東京からかけたNの携帯電話は不通。案の定、この場所は圏外だった。
ネットで調べてもIという地域についての情報はほとんど得られなかった。バスの運転手から、この集落唯一の宿泊施設である釣り宿の存在を聞いたのは運が良かった。もっともその宿(とは名ばかりの民家)で聞いた最初のニュースはNの死だった。漁業の傍ら人も泊めるという宿の主は、Nは家業を継いだ最初の出航で海に落ちたという。死体はあがらなかったが葬儀は営まれた。
Nの死に対する索漠とした気持ちも、釣りに興じている間は正直忘れていた。ホイル焼きを平らげ腹もくちくなり、煙草をふかしながらやや波の立つ海を見ていてやっと思い出した次第だ。荷物を減らすため、残った魚も下ろすことにした。ふだん料理はほとんどしないが、魚の扱いには自信がある。
一番大きなセイゴの腹に出刃を入れた時、刃先になにか固いものが当たった。はらわたと一緒に一枚の硬貨が出てきた。バケツの水で洗ってみると、現在流通しているものではない。文字の刻印も無く、金属の材質も不明。擦り減ってよくわからないが、なにか顔のような造作が見て取れた。釣針や釣糸ならともかく、珍しいこともあるものだとジーンズのポケットに入れた。
宿の晩飯は思いのほか豪勢だった。新鮮な魚料理がこの上なく旨い。ことに塩を振って姿焼にされた魚はこれまでに食べた事の無い美味だ。他に宿泊客もおらず、共に食卓を囲み勝手に呑み始めている宿の主にこの魚の名を聞いた。
「ああ、そりゃ“しいら”さね」
「シイラ? たまに切り身で見るな。じゃあ、この姿焼はその幼魚か」
「いや、そのシイラとは違う。あんたの言うシイラはもっと沖まで出ないと獲れないが、ここいらじゃその魚もしいらというのさ」
シイラと言えば大きな頭と刀のような縦に扁平な体が特徴の大型魚だ。ところがこの“しいら”はむしろカサゴに似ていた。よく発達した胸鰭と腹鰭は十分海底を歩けそうだ。妙な例えだが人に似た顔といいブルドッグに似ている。ちょっと鶏肉に似た締まった身は珍味といって良い。
「ところでこんなものを拾ったんだが……」
ポケットに入れっぱなしのコインの事を思い出し、主に見せてみた。彼は目を見開いてギョッとしたように見えた。手を伸ばし、俺から硬貨を受け取る。
「あんた、これをどこで見つけたかね」
魚の腹から出てきたことを告げると、六十絡みの宿の主は渋面を作った。
「まあ、これも何かの縁だろうが……。あんた、できればこれは海に返してしまった方がいい」
そう言うといかにも辛気臭いという仕草で席を立ってしまった。
翌朝、今夜も泊まることを宿の主に告げると今日も釣り具を持って浜に出た。
曇天のべた凪。大物を狙うには厳しいが、この海ならそれもわからない。釣り好きの血が騒いだ。突堤から早速釣り糸を垂れる。数分も待たずにアタリがあった。これまでにない強い引き。大物かと期待が高まる。
釣り上げてみるとくだんの“しいら”だった。三十センチほどの大きさの割にガッツがある。生きている姿を見ると、暗褐色でぬめぬめと光る鱗に覆われた姿は少々グロテスクだ。ドキュメンタリー番組で見たシーラカンスを思わせた。そういえばこの魚というよりカエルじみた顔は、昨日手に入れたコインの紋様に似ていないだろうか……。
その時、港の方から騒々しいはやし声があがった。なにやら事件があったらしい。ひとまず釣り道具はそのまま突堤に置いて駆けつけた。
「しいら様だ!」
「しいら様が揚がった!」
漁師達が半ば興奮した声を張り上げている。それに伴い、集落の住民が集まってきている。その中に釣り宿の主の姿を認め声をかける。
「一体どうしたってんだ」
俺の姿に一瞬困ったような表情を見せたが、あれだよとアゴをしゃくる。
見ると地引き網の中に体調二メートルに近い大きなしいらが揚がっていた。額は広がりその目は完全に前を向いている。二対の鰭はがっしりとした骨格で突き出していて、海中を泳ぐより岩礁を這うのに適しているのではないかと思わせた。陸に揚げられても呼吸しているかのように口を開閉させ、弱った様子を見せない。宿の主によると、このしいらはまだまだ大きくなるらしい。異様なその姿に、俺は完全に魅せられていた。
徐々に人の輪は大きくなっていった。しいら様、という声とともに、主に年寄りの間から「あれはマスゾウだ」という呟きが聞こえる。マスゾウ? 確かNの下の名は益造ではなかったか。マスゾウ、マスゾウ、マスゾウ。村人の声が合わさっていく。
「なんなんだ、この連中は。マスゾウってのはNのことか」
俺は助けを求めるように宿の主に小声で尋ねた。主はゆっくりと首を振る。
「大きなしいらにゃ特別の信心があるんだよ、ここいらじゃ。よそ者のあんたには関係のないことだ」
関係ないと言いつつ拒絶する風でもなく、声にあきらめに似た響きがあったことが気になった。しいらはそのまま漁協の倉庫に担いで運ばれていった。魚の目が最後まで生気を失っていなかったのが心の片隅に引っかかった。
その晩、俺は宿の主にあの魚をどうするのか訊くのをためらった。よそ者には関係ないというのはその通りだが、魚がどうなるのか気になって仕方がなかった。俺が口を開こうとすると、機先を制して主が話し出す。
「今晩だ。……夜半過ぎに廃坑に行ってみろ。あんたはNに縁のある人だ。これも偶然じゃないんだろう」
それだけ言うと、疲れた様子で主は部屋の奥に向かった。俺はあてがわれた部屋で電灯を消して夜中を待った。
何かの題目のような声が通りから聞こえてきたのは零時を半時も過ぎた頃だ。大きなトロ箱を担いだ壮年の男達を先頭に、主に年寄りの集団が山へと向かっていく。夜釣り用の強力なLEDライトを手に、俺は集団と十分な距離を取って後を追った。
連中は坂道を上ると、宿の主の言うとおり廃坑に降りていった。廃坑への入口といっても、長年人の足で踏み固められた形跡があり、手入れがされていることを窺わせる。
驚いたことに廃坑の中は墓地になっていた。所々に点けられた電灯が弱々しい光で墓石を照らす。さらに進むと坑道は不意に天然の鍾乳洞に繋がった。天井が急に高くなる。同時に湿気を帯びた風が吹き付けてくるのを感じる。潮のにおい。この中は海に繋がってでもいるのだろうか。
つかず離れず俺は先を行く集団を追う。風に乗って連中の唱える声が切れ切れに聞こえるが内容まではわからない。そもそも日本語では無いのではないかと奇妙な考えが浮かぶ。潮のにおいがいよいよ強くなる。下り坂をかなり進んだ。ここはもう海面の高さなのかもしれない。
空間がさらに一気に広がった。かすかな波の音。集団の持つ明かりに照らされて水面が見える。どうやら地底湖にたどり着いたらしい。岩陰に潜んで俺は事の成り行きを見守る。トロ箱が開けられた。案の定、中にはくだんのしいらが納められていた。男達は魚を担ぐと静かに波打ち際に降ろす。驚いたことにしいらはまだ身をよじらせて生きていた。
その時だった。湖面が持ち上がり何かの巨大な頭部が現れた。咄嗟に俺はLEDライトのスイッチを付け照らす。
そこには巨大な何かが“立ち上がって”いた。ぬめぬめとした暗褐色の鱗、胴体から突き出た鰭はすでに手足と言っていい物だった。そして人の顔を模したような頭部。その両目に確かな理性の光を見たとき俺の精神は限界を超えた。
どうやって宿まで戻ってきたのかは覚えていない。宿の主は何事も無かったかのように俺を起こし、飯を食わせバス停まで送った。運賃前払いのバスに乗る際に小銭を探していると、ジーンズのポケットに入れたコインが手に触れた。もう一度ここに来るときは、帰ることは無いだろうなとなぜか思った。