ファフロツキーズ!

ファフロツキーズ!』



 俺たちは不機嫌だった。野良犬のように腹を空かしていた。
 ハンドルを握る友人はセブンスターをふかしながら、延々と続く一本道を時速八十キロで流している。ドライブの始めにたんまりガソリンを食わせた中古のスターレットのエンジンはすこぶる快調だ。古いカーステレオの音の割れたスピーカーからは、乾いた音声が車内を満たしている。
 左手に日本海、右手に切り立った崖。日本最北端を目指す国道232号線の単調な光景は脳髄を麻痺させる。交通信号のない道がもう数十キロは続いていた。
「さっきの町でなにか食っておくんだったな」
「ああ」と俺がひねり出した声は切実な響きをともなった。
 ところどころにドライブインやみやげ屋が見えるが、ことごとく店仕舞いしている。オフシーズンの日曜昼下がり、ドライバー相手に商売をしようという者はいないようだった。
 とにかくなにか腹に収めたかった。普段の生活で徒歩圏内にコンビニがいくらもある有り難さが身に染みた。
「マナでも降ってこないものかね」ふと口をついた。
「聖書の話か」
「そう、空から降ってくる甘露」
「どんなもんだろう」
「カルメ焼きみたいなもんじゃないかな」
 俺の適当なこたえに、我が友人は大きくうなずいている。
「降ってくるといえば」友人は煙草をもみ消すと言った。
「蛙の雨が降る理由を知っているか?」
 たまに外信が伝える奇妙なニュース。豪雨が明けると地面には新鮮な魚や生きている蛙、巨大な氷塊などが散乱しているという。
「蛙ってのは湿った場所に棲むだろう。それが雨が降らない日が続くと、泥の中に穴を掘って土の中に隠れてしまう。それが久しぶりの雨で一斉に這い出してくるから、雨上がりの水たまりには蛙がゴロゴロしてるってわけさ」
 胡散臭い話だとは思ったが、反論するのも面倒くさかった。
「じゃあ、魚は? 降るのは蛙ばかりじゃないだろう」
「ああ、魚か……」
 友人は新しい煙草を口にくわえると、火をつけず頭の振りでBGMのリズムを取っている。こういう時は何も考えていないか、せいぜいくだらないことを考えているだけだと俺は知っていた。
「やっぱり竜巻じゃないかな」俺は言った。
「竜巻が海や池から水ごと魚を吸い上げて陸地に落とすのさ」
「アレみたいにか」
 友人がアゴで海の方を指した。驚くべき事にクルマに併走するようにして竜巻が迫ってきていた。巨大な竜巻は浜辺の簡便な建築物を破壊し巻き上げ、猛然とこちらを追ってくる。
「ちょっと、お前、いつから気づいていた!」
「いまさっき」
 友人はアクセルを踏めるだけ踏んでいるが、このクルマでは出せるスピードにも限界がある。あえなくクルマごと竜巻に巻きこまれた。車輪が宙に浮く嫌な感覚。
「うわーっ!」


 気がつくとガードレールに横付けするようにしてクルマは停止していた。奇跡的に二人とも怪我は無かった。
 俺はシートベルトを外すとふらふらと外に出た。竜巻は一向に衰える気配はなく、すでに遥か先を猛進していた。
「やれやれ、助かったな」
 友人も憔悴した顔で外に出てくる。腰のポケットを探りライターを出すと、咥え煙草に火をつけた。と、何か軽い物がクルマのボンネットに当たり跳ね返ってきた。手元に落ちたそれを拾い上げる。洗濯挟み。友人と顔を見合わせる。
 途端にザーッという音とともに何かが降ってきた。魚。カレイの干物に洗濯挟み。友人が言った。「そういや通り過ぎた漁村で干してたな」
 ああ、主は我らに糧を与え給いき。 

起き抜けのガンナー

『起き抜けのガンナー』



 一昨日までの私には思いも寄らないことだった。昨日仕事を馘(くび)になった。

 習慣で起床時間の数分前には目覚めていた。いつものように静かに目覚まし時計のアラームを止める。
 枕に頭を預けたまま、目を瞑ると昨日の情景がよみがえる。解雇を言い渡した上司たちは、先週私の誕生日があったことなど知りはしないだろう。年度の区切りで、契約社員の女性事務員の、一番年かさだった私を切っただけだ。すでに決定済みの事項を告げる淡々とした、しかしどこかしら芝居じみた声音。急な話で心苦しいんだが、と言う部長の口元に貼り付いた薄ら笑い。
 ベッドを抜け出すと、ボリュームを小さく絞ったテレビをつけ、カーテンを開けた。薄曇りの空。レーズンパンとフルーツ入りヨーグルトと野菜ジュースだけの簡単な朝食を摂ると、やることが無くなった。仕事用の薄いメイクも、つま先のきついパンプスに足をすべり込ませる必要もない。落ち着きのない開放感。
 仰向けにベッドに身を投げ出し天井を見つめる。いつもならもう家を出ている時間。天気予報を告げるテレビ音声に混じって、登校中の子供たちの声が耳に入る。マンション二階の窓の外は、低い生け垣を挟んで住宅街の路地になっている。朝はそれなりに人通りが多い。革靴がアスファルトにあたるコツコツという音がやけに耳に響く。
 仕事なんて、と小さく声に出して口ごもる。たかが仕事を馘になっただけで、私は思いがけないほどの喪失感に打ちのめされていた。自分はいらない人間だと判断された。それが無性に悲しく腹立たしかった。今まで押さえ込んでいた感情から抽出される様に、悔しさが込み上げる。
 上を向いたまま、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。眉一つ動かさず、悲しそうな顔もせず、無表情のまま泣いていた。
 まるで自動的に涙が溢れる一方、心はクリアになっていった。涙の鎮静作用は、速やかに大脳皮質に作用した。三十歳になった自分のことも、これまでの会社への貢献というものも、田舎の家族のことも、全てが同じ卓の駒のように感じられた。冷静に駒の動きを読んで、詰んでしまったからもうこれでお仕舞い。もう一人の私がそう告げる。
 涙をぬぐうと、自然とくびをのけぞらせる格好になった。窓の外には上下逆転した世界。向かいのマンションの外壁と電信柱と電線のカラス。いまにして思うとなぜそんなことをしようと思ったのかわからない。私は右手で指鉄砲を作るとカラスを「ばん」と撃った。
 その瞬間、カラスは視界の上へストンと落ちた。舞い降りるというのではなく、突然支えるものが無くなったように、重力そのままに落ちた。路上からは道行く人々の驚きの声が聞こえる。
 ガバッと起き上がるとベランダを開けて地上を見る。見慣れない黒い塊が地面にあった。人々は遠巻きにそれを眺め、決して近づこうとしない。
 室内に戻り、試みにテーブルの上に出しっぱなしだったマグカップを撃った。「ばん」という声にカキンという音が被さった。マグカップはテーブルの上で三回転すると、縦に綺麗に二分割された。古いテレビはブツンという音とともに電源が落ちた。ボックスティッシュは華々しく紙吹雪を吹き上げた。
 私は今、右手にかつて無い充実感を感じている。丁寧にメイクを仕上げ、春物のブーツとコートでキメた武装は完璧だ。まだ有効期限の切れていないIC定期券をポケットに、向かうのは昨日までの職場。私はアドレナリンのもたらす高揚感を抑えることができない。この奇跡の次の標的を求めて、軽やかに街に歩み出る。

帰路

『帰路』



 予備校から外に出ると、思った以上に外気は冷え込んでいた。
 十一月に入ると日の入りは急速に早くなり、授業から解放される頃にはすっかり暗くなっている。
「今日はゲーセンどうする?」
 タカキに声をかけたが返事がない。
「なあ、ゲーセン寄らないのかよ」
 背の高いタカキに向かって顔を上げ、語気を強める。
「……あぁ、今日はパス」
「じゃあ、オレもいいわ」
 そのまま二人で黙々と歩く。
 駅に向かう道はちょっとした繁華街になっていて、街頭のイルミネーションが、零下に近づいた空気に比例するかのように輝きを増していた。
 と、不意にタカキがオレの肩を抱き寄せた。ふざけているのかと思いきや、そのまま体を密着させて歩く羽目になった。
「ちょ、何だよ!」
 タカキの手を振り払い、前へ回り込む。
「あ、ヒロか! スマン」
 突然オレが現れでもしたかのような表情でタカキが謝る。
「てめえ、さては彼女とでも勘違いしたんだろう」
「うぅ、ゴメン。サキと肩の位置が同じくらいなもんだから、つい」
 オレは一度だけ会ったことのある、短大生の彼女の姿を思い浮かべた。顔はあまり覚えていない。背の高さは確かにオレと同じくらいだった。
「呆けてるんじゃないよ、バカ」
 笑って冷やかすつもりが、苛ついた声になった。突然沸いた胸が締め付けられるような怒りを、自分でも抑えきれなかった。
「怒ってんのか?」
「んなわけ無いだろ」
「そうか」
 再び訪れた沈黙は気まずい雰囲気となった。
 タカキの顔をのぞき見るが、考え事をしているような表情から感情は読めなかった。
「なあ、頼みがあるんだけど」
 しばらくして、唐突にタカキが切り出す。
「なんだよ」
「今度の日曜、お前の寮の部屋貸してくれないか」
「別に……いいけど、なんだよ」
「ほら、お前の所、女の子入れてもお咎め無しだろ。ホテル代もかさんでさ……」
 瞬間、二人がベッドを使っている光景を想像して、一気に頭に血が上った。
「ざけんな。童貞なめんな」
 じろりとにらみ、言い捨てて進行方向を見据えた。
 怒りというより、息苦しいような切ない気持ちになった。自分の不寛容に理由をつけられないまま、オレは早足で歩いた。タカキが追いすがる声が聞こえた。

魔王

『魔王』



 枯れ果てた谷底に巨大な火トカゲの姿を認めたのは、そろそろ陽も暮れようかという時分だった。一人きりの従者に荷と背後を守らせ、俺は急斜面を駆け下った。火トカゲは若い女を襲っていた。滅多なことでは人里までは降りてこないが、この高原地帯では人間族の天敵の一つだった。
 近寄って、崖際のくぼみに追い詰められていたのは穴小人の女だった。独特の様式がある髪の結い上げ方と、毛皮を多用した衣装でそれとわかる。人間族の娘のような風貌だが、その倍以上の寿命を持つ穴小人の年齢は見かけでは推し量れないところがある。
 ともあれ、火トカゲの背後を取った俺に、女もトカゲも気がついていないようだった。片方は恐怖のあまり頭を抱えてうずくまっており、片方は目先の獲物に気を取られて周囲に対する警戒を怠っているようだった。事実、体高が大人の腰ほどもあるこの巨大な爬虫類にとって、留意すべき敵などはまずいないのだった。
 通常、人が火トカゲを狩る際は、鉄で編んだ鈎付きロープを用い数人がかりで取り押さえる。しかし、身の危険を顧みないのならば、急所を突くというやり方もある。俺は腰にはいた剣を抜き、今まさに娘に噛み付こうとした口を狙った。火トカゲの無表情な目に、黒い皮鎧に身を包んだ己の姿が映った。
 火トカゲの急所は頸の付け根だ。ただし、その周囲は鋼の剣すら容易に通さない紅く固い鱗に覆われている。唯一、顎の下、白くぶよぶよとした箇所からのみ、急所を容易に切り裂けるのだった。
 姿勢を低くした俺は剣を逆手に持ち替え、火トカゲの顎の下に滑り込むと一気に剣を突き上げた。鮮血が吹き出し体を赤く染める。剣をさらに一段奥へ差し込むと、腱を断ち切るような感触があった。四肢を震わせ、そのままの姿勢でこの巨大な四足獣は絶命していた。剣を引き抜くと、だらりと火トカゲの躰は伸びた。
「あ……りがとう……ございます」
 いつまでも襲いかかってこない火トカゲの牙に、おそるおそる目を開けた穴小人の女は事情を察したらしい。すっかり腰を抜かしているのか、しどけない姿勢のままで俺に声をかけてきた。火トカゲの血を浴びた凄惨な格好で、剣の血糊を拭っていた俺はこたえる。
「なに、お前の為にしたことではない」まだ目線を合わせず俺は呟いた。
「俺の都合でしたまでのことだ」
 剣を地面に置き、穴小人の女に近寄る。背丈は人間族の子供ほどしかないが、その体は充分に成熟していることが見て取れた。従者が背後に追いついた。俺は皮鎧を外しながら女の前に立った。女の目にわずかな怯えの色が見える。女の視点に合わせて身をかがめながら静かに告げる。
「俺の名はグレンディン。魔王と人間族の母の間に生まれた不義の子だ」
 俺は女の口を手で塞ぐと、そのまま地に押し倒した。女はあらがうような素振りを見せたが恐怖のためか為されるがままだ。女を組み伏せ荒々しく衣服を剥ぐ。大人でも人間族の少女のような姿態。
 下腹部へと手を回すと体毛が濃い。しかしベルベットのような手触りが劣情を誘う。火トカゲに襲われた際に漏らしたのか、秘部はしっとりと濡れていた。体毛の間から赤く覗く一点に俺は欲望を突き入れた。破瓜の血が流れる。
「娘よ、俺の子を身籠もれ。そして父の名を言い聞かせろ。魔族への恨みを忘れるな」
 呪いの言葉を言い聞かせながら、俺は自らの子らが己と父である魔王を討ち滅ぼす日を夢想した。穴小人の娘の目に確かな憎しみの色を見て取った時、満足とともに俺は果てた。
「あのままでいいのですか」従者が控えめに問いかける。
 穴小人の娘をそのまま置き去りにし、俺達はその場を立ち去った。
「すぐそばまで仲間が来ていた。ただ火トカゲに手を出せなかっただけだ」
 火トカゲをそのままにしておいたのは彼らに対する見返りの意味もあった。固く赤い火トカゲの鱗は市場で高く取引される。
 娘は仲間に助け出され、俺を憎むだろう。その確かな感触が今の俺に生を感じさせた。

鬼頭魚

『鬼頭魚』



 餌を付けるのも馬鹿らしくなる釣果だった。イソメだけでカレイとセイゴが面白いようにかかった。俺は形の良いセイゴを残し、あとは海に放った。
 そろそろ午後二時も過ぎる。腹も減った。寒空の中、人気のない突堤でセイゴを三枚に下ろし、暖をとっていた一斗缶のストーブの上に鉄板を渡してホイル焼きにする。スズキの幼魚であるセイゴは焼いても煮ても旨い。釣り宿で用意して貰った握り飯で昼食にする。
 S県S町のはずれ、I……というこの漁村まで釣行に来たのは元同僚、Nの話を思い出したからだ。Nはこの漁村の出身だ。東京に出てきて、俺と同じ会社で働いていた。どこか眠そうな目つきの風采の上がらない奴だったが、人と話すより釣りの好きな俺とはなぜかウマがあった。
 そのNが突然会社を辞めたのは一年以上前の事だ。どうも漁業を続けている実家に不幸があったらしい。
「いまどき跡取りという訳じゃないんですが」と、言いつつも実家から連絡のあった翌日にはきっぱりと会社を辞めていった。Nが出身地の話をしたのは最後に会ったときのことだった。
「Tさんになら気に入ってもらえると思って……」
 妙にもったいぶってNは郷里の集落のことを話した。明治の頃までは鉱山でおおいに栄えた港町だったらしいが、今は最寄りの鉄道駅から路線バスで一時間以上かかる過疎の地であること。観光名所もなく、ほぼ自給自足の漁業の町であること。ただ、世間には知られていない絶好の釣りスポットであること。そんなことをボソボソと話した。
 大きなプロジェクトが終わりまとまった休みの取れた俺は、不意にNの話を思い出した。独身の気楽さで翌日には一日一往復のバスに乗って、くだんのIという集落に降り立っていた。東京からかけたNの携帯電話は不通。案の定、この場所は圏外だった。
 ネットで調べてもIという地域についての情報はほとんど得られなかった。バスの運転手から、この集落唯一の宿泊施設である釣り宿の存在を聞いたのは運が良かった。もっともその宿(とは名ばかりの民家)で聞いた最初のニュースはNの死だった。漁業の傍ら人も泊めるという宿の主は、Nは家業を継いだ最初の出航で海に落ちたという。死体はあがらなかったが葬儀は営まれた。
 Nの死に対する索漠とした気持ちも、釣りに興じている間は正直忘れていた。ホイル焼きを平らげ腹もくちくなり、煙草をふかしながらやや波の立つ海を見ていてやっと思い出した次第だ。荷物を減らすため、残った魚も下ろすことにした。ふだん料理はほとんどしないが、魚の扱いには自信がある。
 一番大きなセイゴの腹に出刃を入れた時、刃先になにか固いものが当たった。はらわたと一緒に一枚の硬貨が出てきた。バケツの水で洗ってみると、現在流通しているものではない。文字の刻印も無く、金属の材質も不明。擦り減ってよくわからないが、なにか顔のような造作が見て取れた。釣針や釣糸ならともかく、珍しいこともあるものだとジーンズのポケットに入れた。

 宿の晩飯は思いのほか豪勢だった。新鮮な魚料理がこの上なく旨い。ことに塩を振って姿焼にされた魚はこれまでに食べた事の無い美味だ。他に宿泊客もおらず、共に食卓を囲み勝手に呑み始めている宿の主にこの魚の名を聞いた。
「ああ、そりゃ“しいら”さね」
シイラ? たまに切り身で見るな。じゃあ、この姿焼はその幼魚か」
「いや、そのシイラとは違う。あんたの言うシイラはもっと沖まで出ないと獲れないが、ここいらじゃその魚もしいらというのさ」
 シイラと言えば大きな頭と刀のような縦に扁平な体が特徴の大型魚だ。ところがこの“しいら”はむしろカサゴに似ていた。よく発達した胸鰭と腹鰭は十分海底を歩けそうだ。妙な例えだが人に似た顔といいブルドッグに似ている。ちょっと鶏肉に似た締まった身は珍味といって良い。
「ところでこんなものを拾ったんだが……」
 ポケットに入れっぱなしのコインの事を思い出し、主に見せてみた。彼は目を見開いてギョッとしたように見えた。手を伸ばし、俺から硬貨を受け取る。
「あんた、これをどこで見つけたかね」
 魚の腹から出てきたことを告げると、六十絡みの宿の主は渋面を作った。
「まあ、これも何かの縁だろうが……。あんた、できればこれは海に返してしまった方がいい」
 そう言うといかにも辛気臭いという仕草で席を立ってしまった。

 翌朝、今夜も泊まることを宿の主に告げると今日も釣り具を持って浜に出た。
 曇天のべた凪。大物を狙うには厳しいが、この海ならそれもわからない。釣り好きの血が騒いだ。突堤から早速釣り糸を垂れる。数分も待たずにアタリがあった。これまでにない強い引き。大物かと期待が高まる。
 釣り上げてみるとくだんの“しいら”だった。三十センチほどの大きさの割にガッツがある。生きている姿を見ると、暗褐色でぬめぬめと光る鱗に覆われた姿は少々グロテスクだ。ドキュメンタリー番組で見たシーラカンスを思わせた。そういえばこの魚というよりカエルじみた顔は、昨日手に入れたコインの紋様に似ていないだろうか……。
 その時、港の方から騒々しいはやし声があがった。なにやら事件があったらしい。ひとまず釣り道具はそのまま突堤に置いて駆けつけた。
「しいら様だ!」
「しいら様が揚がった!」
 漁師達が半ば興奮した声を張り上げている。それに伴い、集落の住民が集まってきている。その中に釣り宿の主の姿を認め声をかける。
「一体どうしたってんだ」
 俺の姿に一瞬困ったような表情を見せたが、あれだよとアゴをしゃくる。
 見ると地引き網の中に体調二メートルに近い大きなしいらが揚がっていた。額は広がりその目は完全に前を向いている。二対の鰭はがっしりとした骨格で突き出していて、海中を泳ぐより岩礁を這うのに適しているのではないかと思わせた。陸に揚げられても呼吸しているかのように口を開閉させ、弱った様子を見せない。宿の主によると、このしいらはまだまだ大きくなるらしい。異様なその姿に、俺は完全に魅せられていた。
 徐々に人の輪は大きくなっていった。しいら様、という声とともに、主に年寄りの間から「あれはマスゾウだ」という呟きが聞こえる。マスゾウ? 確かNの下の名は益造ではなかったか。マスゾウ、マスゾウ、マスゾウ。村人の声が合わさっていく。
「なんなんだ、この連中は。マスゾウってのはNのことか」
 俺は助けを求めるように宿の主に小声で尋ねた。主はゆっくりと首を振る。
「大きなしいらにゃ特別の信心があるんだよ、ここいらじゃ。よそ者のあんたには関係のないことだ」
 関係ないと言いつつ拒絶する風でもなく、声にあきらめに似た響きがあったことが気になった。しいらはそのまま漁協の倉庫に担いで運ばれていった。魚の目が最後まで生気を失っていなかったのが心の片隅に引っかかった。

 その晩、俺は宿の主にあの魚をどうするのか訊くのをためらった。よそ者には関係ないというのはその通りだが、魚がどうなるのか気になって仕方がなかった。俺が口を開こうとすると、機先を制して主が話し出す。
「今晩だ。……夜半過ぎに廃坑に行ってみろ。あんたはNに縁のある人だ。これも偶然じゃないんだろう」
 それだけ言うと、疲れた様子で主は部屋の奥に向かった。俺はあてがわれた部屋で電灯を消して夜中を待った。
 何かの題目のような声が通りから聞こえてきたのは零時を半時も過ぎた頃だ。大きなトロ箱を担いだ壮年の男達を先頭に、主に年寄りの集団が山へと向かっていく。夜釣り用の強力なLEDライトを手に、俺は集団と十分な距離を取って後を追った。
 連中は坂道を上ると、宿の主の言うとおり廃坑に降りていった。廃坑への入口といっても、長年人の足で踏み固められた形跡があり、手入れがされていることを窺わせる。
 驚いたことに廃坑の中は墓地になっていた。所々に点けられた電灯が弱々しい光で墓石を照らす。さらに進むと坑道は不意に天然の鍾乳洞に繋がった。天井が急に高くなる。同時に湿気を帯びた風が吹き付けてくるのを感じる。潮のにおい。この中は海に繋がってでもいるのだろうか。
 つかず離れず俺は先を行く集団を追う。風に乗って連中の唱える声が切れ切れに聞こえるが内容まではわからない。そもそも日本語では無いのではないかと奇妙な考えが浮かぶ。潮のにおいがいよいよ強くなる。下り坂をかなり進んだ。ここはもう海面の高さなのかもしれない。
 空間がさらに一気に広がった。かすかな波の音。集団の持つ明かりに照らされて水面が見える。どうやら地底湖にたどり着いたらしい。岩陰に潜んで俺は事の成り行きを見守る。トロ箱が開けられた。案の定、中にはくだんのしいらが納められていた。男達は魚を担ぐと静かに波打ち際に降ろす。驚いたことにしいらはまだ身をよじらせて生きていた。
 その時だった。湖面が持ち上がり何かの巨大な頭部が現れた。咄嗟に俺はLEDライトのスイッチを付け照らす。
 そこには巨大な何かが“立ち上がって”いた。ぬめぬめとした暗褐色の鱗、胴体から突き出た鰭はすでに手足と言っていい物だった。そして人の顔を模したような頭部。その両目に確かな理性の光を見たとき俺の精神は限界を超えた。

 どうやって宿まで戻ってきたのかは覚えていない。宿の主は何事も無かったかのように俺を起こし、飯を食わせバス停まで送った。運賃前払いのバスに乗る際に小銭を探していると、ジーンズのポケットに入れたコインが手に触れた。もう一度ここに来るときは、帰ることは無いだろうなとなぜか思った。

ドラゴンフライの空

『ドラゴンフライの空』



「ルート66には古き良きアメリカがまだ陽炎のように残っている」
 新兵の頃、そんなことを俺に言って聞かせた奴がいた。すでに戦死し名前も忘れたが、アメリカのえらく田舎から出てきていたことだけはまだ覚えている。その旧国道ルート66号線沿い、半世紀以上前から営業を続けているダイナーにもう半月も逗留している事が、そんな感傷的な台詞を思い出させたのかもしれない。
 夕暮れの店内は五分の賑わいといったところだ。顔なじみになった爺さんに軽く手を上げて挨拶を交わす。
 日が沈むより少し前に昇った月は、窓際の席からほぼ真円を描いて見える。その逆方向、日没後の照り返しに映えて鮮やかなオレンジ色に輝く東の雲に、数匹の『竜』のシルエットがあった。
「ワタル、なにボーっとしてんのよッ」
 声より先に背中を手のひらでバシッとやられた。振り向かなくてもわかる。ウェイトレスのケイティだ。両手を上げて降参の意思表示。
「気安く戦闘機乗りの背後を取らないでくれ、自信を無くす」
「そんなだから飛行機ごと墜とされたりするんじゃない?」
 ダイナーの制服に身を包んだ、栗毛の髪を持つ少女が笑顔でのぞき込んだ。その言葉が本気でないことは表情でわかる。
 それより、ケイティの家族が『あの日』の飛行機に乗っていて墜落死していたことが気になった。しかし、たとえ冗談でもこんな会話ができるところが彼女の強さなのだろう。ホッとするとともに、この会話はこのところ俺を悩ませているある考えを呼び起こした。
 ケイティの強さに引き換え、あの日『竜』に家族を奪われた憎しみに突き動かされて、こんな異国の地まで来てあがいている自分は、果たして強いといえるのだろうか。
 嫌な胸騒ぎを抑え込むように、俺はことさら平静を保つよう振舞った。
「なあ、竜には昼間を好むものと夜を好むものがあるって知っているか?」
「そうなの? ここいらみたいに鄙びた土地だと、空を見上げれば竜の一匹も必ず目に入るけど」
「ほら、あそこに見える風竜がそうさ」
 まだ夕陽の残滓が残る西の空を指差す。赤い空を背景に切り絵のように細長いシルエットが舞っている。
「奴らは太陽を目指してどこまでも飛んでいく。つまり休むことなく地球の自転に合わせて飛行を続けているわけだ」
「へえ、それはすごいスタミナねえ」
 単なる感想として出たその言葉に、俺は二の句を継げなかった。そもそも奴らが何を食らい、エネルギー源としているのかもはっきりとは判っていない。そう、俺たちは竜について結局何もわかっちゃいないんだ。

 竜の出現はあまりにも突然で、そして完膚無きまでに破壊的だった。
 五年前の七月九日、全世界同時に出現した竜は数万とも数百万とも言われる。小さな個体で全長十数メートル。東洋の伝説にある竜に似た蟲。複数の対になった翅を生やしたような存在が、その瞬間いずこからともなく空中に現れた。
 奴らは超音速で飛び回り、地表近くから成層圏のはるか上、宇宙空間までを徘徊した。その存在は言うまでもなく、目的も一切不明。
 一つだけはっきりしていることは、奴らの頭部から発する強力な電磁波が、航行中のすべての航空機の電子部品を破壊しつくした事実だった。その影響範囲は全世界。ありとあらゆる航空機が墜ちた。
 悪夢のような一日。そしてその後の世界を覆う大混乱。流通は麻痺し、経済活動は停止し、国家は治安を維持するため軍隊を動かした。
 そして正体不明の敵に対して攻撃を行った者は、最先端の電子機器を搭載した兵器が全くの無力であることを知ることとなった。空の覇権は人類の手からいとも簡単に奪われた。
 だが、それを良しとしない者もあった。ハイテク兵器が無効と知ると、歴史を半世紀以上巻き戻し、人間の手で操縦し目で狙いを定める航空機で敵と対峙するアメリカのような国だ。
 あまりにも効率の悪い戦闘をカミカゼと揶揄するマスコミも、民衆の世論は覆すことはできなかった。誰もが復讐を求めていた。そして俺のように、家族を竜によって失い米軍に志願する者の数も少なくなかったのである。

 俺――神無木ワタルは飛行時間がすでに一千時間を超える戦闘機乗りだ。パイロットとして死線を数度もくぐってきている。
 全世界でただ一国、もはや不毛ともいえる戦闘を続けている米国に渡ったのが十八歳の時。それからエアフォースに入り四年。ベンチに投げ出した体はすでに鍛え抜かれた兵士のものだ。
 ただし、今のところその右足はギプスによってしっかりと固定されている。そして身を横たえているベンチは、物干し台しかない殺風景なダイナーの屋上に置かれたものだ。すぐそばに松葉杖が転がっている。
 近傍の空中戦で失速し、トウモロコシ畑に無謀な着陸を試みた一部始終を偶然見ていて駆けつけたのがケイティだった。電話で連絡した軍にも僻地まで負傷兵一人を回収する余裕がなく、傷病休暇……要は現地療養を余儀なくされた。
 軍人の特権で自由になるクレジット、そしてなによりケイティの寛大な心のおかげで、このダイナーで治療生活を続けることになったのは幸運だった。
 もう正午を過ぎているだろう。秋も深まっているが、アメリカ南西部の日射しはまだ刺すような熱気を失っていない。
 それでも視線を空の一点に定めて俺は動けなかった。昨晩からの自問自答を繰り返す自分があった。俺は心の弱さをこの戦いにぶつけているのだろうか。
「あー、ワタル! またこんなところに」
 やけにキーの高い英語が響く。ウェイトレス姿の少女が、トレイに食事を載せ屋上への通用口を上がってきた。
「何処にいようが俺の勝手だろ」
 視線だけ向けて俺は応える。
 少女――ケイティ・ホークアイは落胆したような態度は微塵も見せない。
 豊かなストレートの栗毛に黒い瞳。生粋のネイティブアメリカンである祖父と同居しているケイティは、モンゴロイドの血が四分の一入っている。祖父がダイナーの経営者でケイティはアルバイトだ。
「なぜ高いところが好きなのかしらね。飛行機乗りってみんなそうなの?」
 埒もない質問にはこたえず俺は身を起こした。昼間のケイティは赤のストライプと大きな襟が特徴のワンピースに、エプロンをつけた制服を着ている。
 ルート66が廃線になり高速道路にその座を譲って久しいが、それでも最近はこのダイナーに立ち寄る客は多い。アメリカ全体が、いや世界中が昔の世界を懐かしんでいるのだ。
「食べるものも食べないとその怪我も治らないよ」
 クラブハウスサンドコールスロー、チェリーパイがトレイには載っている。ポットにはコーヒー。俺は一応神妙な顔つきでトレイを受け取った。
 満足げな表情で見つめる年下の少女に感謝しながらも、心は索漠としている。先ほどまでの思考が、戦線に戻るという義務を焦燥感に変化させていた。
 サンドウィッチに手を伸ばした瞬間、日差しが遮られ不意にあたりが暗くなった。上を見上げるいとまもなく、ドンと腹に響く衝撃波。はるか上空を通過した存在を北西の空に確認。『竜』だ。それもとびきり大きい。全長五百メートルはあるだろう。その姿が見る間に小さくなっていく。
「……オールド・ドラゴンフライ」
 ケイティが呟いた。声が震えていなかったことが奇跡的だった。
 そう、奴はこのあたり、オクラホマ州近隣を中心に南西部を支配する『竜』のボスだ。このクラスの竜は北米大陸全体でも五匹は居ないと言われている。そして細長い体躯と二対の翅からオールド・ドラゴンフライとあだ名される竜こそが、ケイティの両親と妹の命を奪った仇だった。
「畜生ッ」
 食事をそのままに、俺は松葉杖を拾い乱暴に立ち上がった。
 そうだ。あいつだ。この土地を呪縛し、『俺の夢にまで現れる』竜の王。
「そんな体で何ができるの」
 ぴしゃりと、しかし穏やかにケイティは続ける。
「私、夢に見ることがあるの。蒼い世界。家族やほかの死んでしまったたくさんの人たちが竜と一緒に笑って暮らしているの」
 その声には悲しみも怒りも含まれていなかった。しいて言えば畏れに近い感情を汲んで取れた筈だ。
「馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てたが内心の怖気は抑えきれない。また夢の話だ。近しい人を竜に殺された者の間に広がっている密やかな噂。
 ケイティに背を向けたまま、一呼吸おいて俺は応えた。
「約束をしよう」
 上半身で斜めに振り向き俺は言った。
「約束するよ。あいつは俺が倒してやる」
 会話を打ち切ると、俺は暗い階段をゆっくり降りていった。ケイティは追ってこなかった。足音もしなかった。
 怒りを支えにこの後も俺は歩き続ける。死など絶対的な恐怖の対象に比べればちゃちなものだった。
 ――そう、信じていた。あの頃までは。

絆創膏同盟

『絆創膏同盟』



「なあ、日曜日の試合勝ったぜ」
 そう言いながら、リョウがテーブルごしにスネを蹴ってきた。立て付けが悪いマクドナルドのテーブルが揺れる。
「勝ったって空手か」
 照れ隠しなのか、さかんにスネを狙ってくるリョウをかわしながら僕はこたえた。
「ああ、中二組手で優勝。やっぱジンクスってやつだな」
「おまえ、万年準優勝だって言ってたものな。……じゃあ」
 半立ちになり、まだふざけているリョウをこづいてから僕は左手を差し出した。リョウもテーブルに肘をつけたまま左手を前に出す。僕が腰を下ろすと、ちょうど腕相撲のような体勢になった。そのまま互いに右手を差し出し、相手の左手の甲に貼った絆創膏を剥がす。僕のその部分の肌にはRとブルーのボールペンで書かれている。
「サンキュー、シン」
 絆創膏をヒラヒラさせながらリョウが言う。リョウの手の甲には“慎”と僕の名前の頭が書いてある。
「やっぱ、シンとの同盟は効くな。なんてーの、心頭滅却するというか。技が冴える」
「シンちゃんの浮世離れしたキャラが生きてるんだよねー」
 なんとなく失礼な事を言いながら、ポテトとシェイクを手にしたサエが割り込んでくる。誰にも優しくて面倒見のいいサエだが、溶けかけたシェイクをポテトですくいながら食べる趣味だけは同意できない。
 サエの右肘にも絆創膏が貼られている。僕の隣でさかんにケータイをいじっているアキが昨日貼ったものだ。願いは今週発売のライブチケットを必ず手に入れる、だ。
 この絆創膏を使った遊びは、いつもこの店に集まる仲間内で始めたものだ。願いを一つ相手に話し、体のどこかにマークを書いてもらい絆創膏で隠す。同様に自分も聞き届けてくれた相手の同じ箇所にマークを書いて絆創膏を貼る。互いの絆創膏が剥がれなければ、その期間内に願いがかなうというジンクスだ。
「そういやその額の奴、新しいな」
 僕の額を指してリョウが言う。
「あ、リョウくん昨日いなかったものね。ハルコとの同盟でしょ。それなんのお願い?」
 入院している姉との面会でハルコは今日学校を休んでいた。いつものことだ。
 同盟の内容は仲間内にしか教えないルールになっている。そういえばこの絆創膏を交わしたとき、サエは電話、アキはトイレか何かでこの店の席を外していた。
「それがあまりハッキリしない話でさ」
 話しはじめた途端、それまでケータイに没頭していたアキがいきなり背をそらせつぶやいた。
「うわ……マジ」
 イヤフォンを外し、アキが向き直る。放心したような表情だったが目が笑っていなかった。
「ちょっと、コレ見て!」
 そのまま僕らの方にケータイのテレビ画面を差し出す。そこには、よく顔を見る政治家が見える。政府特別放送、という見慣れないテロップが目に入った。
「総理大臣よね、このヒト。どうしたの」
 いつもののんびりした口調でサエがたずねる。
 アキの大人びた顔には、これまで見たことがないような険しさが満ちていた。学年一の秀才で、校内ではいけ好かない態度を取るヤツだったが、仲間内ではよく笑顔を見せる。でも、こんな厳しい表情ははじめて見た。
「私もよく理解できないんだけど……地球に衝突するコースの隕石が『突然発見された』って」
 その言葉が合図にでもなったかのように、途端に周囲の客席からケータイの着信音が響きはじめた。大人達が動揺した口調で会話をしている。話しながら出口を急ぐ人もいる。
「で、なにが大変なの?」
 腑に落ちない表情でサエが聞いている。リョウは学校は休みになるのかと嬉しげな口調だ。アキは今の天文学では有りえないことだとかなんとか、ややキレかけた口調で説明している。
 その時、僕のケータイに着信があった。メールだ。無意識の動作でケータイを開く。差出人はハルコ。
『願いがかないました。これから家族全員で長野のおばあちゃんの家に旅行です』
 そうだった。ハルコの願いは「死ぬまでずっと家族が一緒にいられますように」だった。額の絆創膏がむず痒い気がした。