起き抜けのガンナー

『起き抜けのガンナー』



 一昨日までの私には思いも寄らないことだった。昨日仕事を馘(くび)になった。

 習慣で起床時間の数分前には目覚めていた。いつものように静かに目覚まし時計のアラームを止める。
 枕に頭を預けたまま、目を瞑ると昨日の情景がよみがえる。解雇を言い渡した上司たちは、先週私の誕生日があったことなど知りはしないだろう。年度の区切りで、契約社員の女性事務員の、一番年かさだった私を切っただけだ。すでに決定済みの事項を告げる淡々とした、しかしどこかしら芝居じみた声音。急な話で心苦しいんだが、と言う部長の口元に貼り付いた薄ら笑い。
 ベッドを抜け出すと、ボリュームを小さく絞ったテレビをつけ、カーテンを開けた。薄曇りの空。レーズンパンとフルーツ入りヨーグルトと野菜ジュースだけの簡単な朝食を摂ると、やることが無くなった。仕事用の薄いメイクも、つま先のきついパンプスに足をすべり込ませる必要もない。落ち着きのない開放感。
 仰向けにベッドに身を投げ出し天井を見つめる。いつもならもう家を出ている時間。天気予報を告げるテレビ音声に混じって、登校中の子供たちの声が耳に入る。マンション二階の窓の外は、低い生け垣を挟んで住宅街の路地になっている。朝はそれなりに人通りが多い。革靴がアスファルトにあたるコツコツという音がやけに耳に響く。
 仕事なんて、と小さく声に出して口ごもる。たかが仕事を馘になっただけで、私は思いがけないほどの喪失感に打ちのめされていた。自分はいらない人間だと判断された。それが無性に悲しく腹立たしかった。今まで押さえ込んでいた感情から抽出される様に、悔しさが込み上げる。
 上を向いたまま、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。眉一つ動かさず、悲しそうな顔もせず、無表情のまま泣いていた。
 まるで自動的に涙が溢れる一方、心はクリアになっていった。涙の鎮静作用は、速やかに大脳皮質に作用した。三十歳になった自分のことも、これまでの会社への貢献というものも、田舎の家族のことも、全てが同じ卓の駒のように感じられた。冷静に駒の動きを読んで、詰んでしまったからもうこれでお仕舞い。もう一人の私がそう告げる。
 涙をぬぐうと、自然とくびをのけぞらせる格好になった。窓の外には上下逆転した世界。向かいのマンションの外壁と電信柱と電線のカラス。いまにして思うとなぜそんなことをしようと思ったのかわからない。私は右手で指鉄砲を作るとカラスを「ばん」と撃った。
 その瞬間、カラスは視界の上へストンと落ちた。舞い降りるというのではなく、突然支えるものが無くなったように、重力そのままに落ちた。路上からは道行く人々の驚きの声が聞こえる。
 ガバッと起き上がるとベランダを開けて地上を見る。見慣れない黒い塊が地面にあった。人々は遠巻きにそれを眺め、決して近づこうとしない。
 室内に戻り、試みにテーブルの上に出しっぱなしだったマグカップを撃った。「ばん」という声にカキンという音が被さった。マグカップはテーブルの上で三回転すると、縦に綺麗に二分割された。古いテレビはブツンという音とともに電源が落ちた。ボックスティッシュは華々しく紙吹雪を吹き上げた。
 私は今、右手にかつて無い充実感を感じている。丁寧にメイクを仕上げ、春物のブーツとコートでキメた武装は完璧だ。まだ有効期限の切れていないIC定期券をポケットに、向かうのは昨日までの職場。私はアドレナリンのもたらす高揚感を抑えることができない。この奇跡の次の標的を求めて、軽やかに街に歩み出る。