ドラゴンフライの空

『ドラゴンフライの空』



「ルート66には古き良きアメリカがまだ陽炎のように残っている」
 新兵の頃、そんなことを俺に言って聞かせた奴がいた。すでに戦死し名前も忘れたが、アメリカのえらく田舎から出てきていたことだけはまだ覚えている。その旧国道ルート66号線沿い、半世紀以上前から営業を続けているダイナーにもう半月も逗留している事が、そんな感傷的な台詞を思い出させたのかもしれない。
 夕暮れの店内は五分の賑わいといったところだ。顔なじみになった爺さんに軽く手を上げて挨拶を交わす。
 日が沈むより少し前に昇った月は、窓際の席からほぼ真円を描いて見える。その逆方向、日没後の照り返しに映えて鮮やかなオレンジ色に輝く東の雲に、数匹の『竜』のシルエットがあった。
「ワタル、なにボーっとしてんのよッ」
 声より先に背中を手のひらでバシッとやられた。振り向かなくてもわかる。ウェイトレスのケイティだ。両手を上げて降参の意思表示。
「気安く戦闘機乗りの背後を取らないでくれ、自信を無くす」
「そんなだから飛行機ごと墜とされたりするんじゃない?」
 ダイナーの制服に身を包んだ、栗毛の髪を持つ少女が笑顔でのぞき込んだ。その言葉が本気でないことは表情でわかる。
 それより、ケイティの家族が『あの日』の飛行機に乗っていて墜落死していたことが気になった。しかし、たとえ冗談でもこんな会話ができるところが彼女の強さなのだろう。ホッとするとともに、この会話はこのところ俺を悩ませているある考えを呼び起こした。
 ケイティの強さに引き換え、あの日『竜』に家族を奪われた憎しみに突き動かされて、こんな異国の地まで来てあがいている自分は、果たして強いといえるのだろうか。
 嫌な胸騒ぎを抑え込むように、俺はことさら平静を保つよう振舞った。
「なあ、竜には昼間を好むものと夜を好むものがあるって知っているか?」
「そうなの? ここいらみたいに鄙びた土地だと、空を見上げれば竜の一匹も必ず目に入るけど」
「ほら、あそこに見える風竜がそうさ」
 まだ夕陽の残滓が残る西の空を指差す。赤い空を背景に切り絵のように細長いシルエットが舞っている。
「奴らは太陽を目指してどこまでも飛んでいく。つまり休むことなく地球の自転に合わせて飛行を続けているわけだ」
「へえ、それはすごいスタミナねえ」
 単なる感想として出たその言葉に、俺は二の句を継げなかった。そもそも奴らが何を食らい、エネルギー源としているのかもはっきりとは判っていない。そう、俺たちは竜について結局何もわかっちゃいないんだ。

 竜の出現はあまりにも突然で、そして完膚無きまでに破壊的だった。
 五年前の七月九日、全世界同時に出現した竜は数万とも数百万とも言われる。小さな個体で全長十数メートル。東洋の伝説にある竜に似た蟲。複数の対になった翅を生やしたような存在が、その瞬間いずこからともなく空中に現れた。
 奴らは超音速で飛び回り、地表近くから成層圏のはるか上、宇宙空間までを徘徊した。その存在は言うまでもなく、目的も一切不明。
 一つだけはっきりしていることは、奴らの頭部から発する強力な電磁波が、航行中のすべての航空機の電子部品を破壊しつくした事実だった。その影響範囲は全世界。ありとあらゆる航空機が墜ちた。
 悪夢のような一日。そしてその後の世界を覆う大混乱。流通は麻痺し、経済活動は停止し、国家は治安を維持するため軍隊を動かした。
 そして正体不明の敵に対して攻撃を行った者は、最先端の電子機器を搭載した兵器が全くの無力であることを知ることとなった。空の覇権は人類の手からいとも簡単に奪われた。
 だが、それを良しとしない者もあった。ハイテク兵器が無効と知ると、歴史を半世紀以上巻き戻し、人間の手で操縦し目で狙いを定める航空機で敵と対峙するアメリカのような国だ。
 あまりにも効率の悪い戦闘をカミカゼと揶揄するマスコミも、民衆の世論は覆すことはできなかった。誰もが復讐を求めていた。そして俺のように、家族を竜によって失い米軍に志願する者の数も少なくなかったのである。

 俺――神無木ワタルは飛行時間がすでに一千時間を超える戦闘機乗りだ。パイロットとして死線を数度もくぐってきている。
 全世界でただ一国、もはや不毛ともいえる戦闘を続けている米国に渡ったのが十八歳の時。それからエアフォースに入り四年。ベンチに投げ出した体はすでに鍛え抜かれた兵士のものだ。
 ただし、今のところその右足はギプスによってしっかりと固定されている。そして身を横たえているベンチは、物干し台しかない殺風景なダイナーの屋上に置かれたものだ。すぐそばに松葉杖が転がっている。
 近傍の空中戦で失速し、トウモロコシ畑に無謀な着陸を試みた一部始終を偶然見ていて駆けつけたのがケイティだった。電話で連絡した軍にも僻地まで負傷兵一人を回収する余裕がなく、傷病休暇……要は現地療養を余儀なくされた。
 軍人の特権で自由になるクレジット、そしてなによりケイティの寛大な心のおかげで、このダイナーで治療生活を続けることになったのは幸運だった。
 もう正午を過ぎているだろう。秋も深まっているが、アメリカ南西部の日射しはまだ刺すような熱気を失っていない。
 それでも視線を空の一点に定めて俺は動けなかった。昨晩からの自問自答を繰り返す自分があった。俺は心の弱さをこの戦いにぶつけているのだろうか。
「あー、ワタル! またこんなところに」
 やけにキーの高い英語が響く。ウェイトレス姿の少女が、トレイに食事を載せ屋上への通用口を上がってきた。
「何処にいようが俺の勝手だろ」
 視線だけ向けて俺は応える。
 少女――ケイティ・ホークアイは落胆したような態度は微塵も見せない。
 豊かなストレートの栗毛に黒い瞳。生粋のネイティブアメリカンである祖父と同居しているケイティは、モンゴロイドの血が四分の一入っている。祖父がダイナーの経営者でケイティはアルバイトだ。
「なぜ高いところが好きなのかしらね。飛行機乗りってみんなそうなの?」
 埒もない質問にはこたえず俺は身を起こした。昼間のケイティは赤のストライプと大きな襟が特徴のワンピースに、エプロンをつけた制服を着ている。
 ルート66が廃線になり高速道路にその座を譲って久しいが、それでも最近はこのダイナーに立ち寄る客は多い。アメリカ全体が、いや世界中が昔の世界を懐かしんでいるのだ。
「食べるものも食べないとその怪我も治らないよ」
 クラブハウスサンドコールスロー、チェリーパイがトレイには載っている。ポットにはコーヒー。俺は一応神妙な顔つきでトレイを受け取った。
 満足げな表情で見つめる年下の少女に感謝しながらも、心は索漠としている。先ほどまでの思考が、戦線に戻るという義務を焦燥感に変化させていた。
 サンドウィッチに手を伸ばした瞬間、日差しが遮られ不意にあたりが暗くなった。上を見上げるいとまもなく、ドンと腹に響く衝撃波。はるか上空を通過した存在を北西の空に確認。『竜』だ。それもとびきり大きい。全長五百メートルはあるだろう。その姿が見る間に小さくなっていく。
「……オールド・ドラゴンフライ」
 ケイティが呟いた。声が震えていなかったことが奇跡的だった。
 そう、奴はこのあたり、オクラホマ州近隣を中心に南西部を支配する『竜』のボスだ。このクラスの竜は北米大陸全体でも五匹は居ないと言われている。そして細長い体躯と二対の翅からオールド・ドラゴンフライとあだ名される竜こそが、ケイティの両親と妹の命を奪った仇だった。
「畜生ッ」
 食事をそのままに、俺は松葉杖を拾い乱暴に立ち上がった。
 そうだ。あいつだ。この土地を呪縛し、『俺の夢にまで現れる』竜の王。
「そんな体で何ができるの」
 ぴしゃりと、しかし穏やかにケイティは続ける。
「私、夢に見ることがあるの。蒼い世界。家族やほかの死んでしまったたくさんの人たちが竜と一緒に笑って暮らしているの」
 その声には悲しみも怒りも含まれていなかった。しいて言えば畏れに近い感情を汲んで取れた筈だ。
「馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てたが内心の怖気は抑えきれない。また夢の話だ。近しい人を竜に殺された者の間に広がっている密やかな噂。
 ケイティに背を向けたまま、一呼吸おいて俺は応えた。
「約束をしよう」
 上半身で斜めに振り向き俺は言った。
「約束するよ。あいつは俺が倒してやる」
 会話を打ち切ると、俺は暗い階段をゆっくり降りていった。ケイティは追ってこなかった。足音もしなかった。
 怒りを支えにこの後も俺は歩き続ける。死など絶対的な恐怖の対象に比べればちゃちなものだった。
 ――そう、信じていた。あの頃までは。