空殻のテーミス

1. 空殻
「くうかく」と読ませるが本来の読みは「あきがら」。中身のない貝殻、肉のない貝殻の意。転じてからになっていて、中に何もないこと。

2. テーミス
ギリシア神話の法・掟の女神。

 

 1

 あの大雪の日からちょうど半年がたった。そのときも自分はここにいた。女子高の制服を着込み、肩まで届く髪を指先で弄びながらそんなことを思う。
 槇枝燐侘(まきしりんだ)は他に客のいないスタバから、渋谷駅前の大交差点を眺めていた。八月の日差しに晒された歩行者は、全体が一つの意思で制御されているかのようにスクランブル交差点の中で交わり、それぞれがそれぞれの向こう岸へたどり着く。
 青信号の点滅する中、人の流れが乱れたのを燐侘は見逃さなかった。規格品のようにそろった身なりの会社員たちの中で、遠目に見てもわかる妊婦と少年の組み合わせは目立っていた。
 飲みかけのソルティライチのペットボトルの蓋を閉め、普段使いには大きすぎるメッセンジャーバッグに放り込むと、燐侘はカウンターの中で棒立ちになっている店員に手のひらを振ってそのまま店を出た。
「大丈夫~?」
 車道に取り残された二人は路上に出た瞬間に燐侘の目に入った。離れた距離から大きく声をかけると少年が顔を向けた。年の頃は十二、三歳。強いまなざしは線の細い体には似つかわしくない。こんな世の中をサバイバルしてきたのだからむしろ当然だ。燐侘はカフェで緩んだ頭を切り替える。
 交差点を行く車列は交通整理がされているかのように二人を避けていく。相手を警戒させないように、横断歩道の前にバッグを置いた燐侘は両手を空けてゆっくりと近づく。
「その人、お母さん?」
 燐侘の問いに少年は硬い表情のままうなずく。少年よりも少し背の高い女性は遠目に見たように妊婦のようだった。もともと華奢な体格なのか、お腹の膨らみは目立って見えた。足がもつれて転んだのか、妊婦は自力で立ち上がるのが難しいように見える。そして、彼女が発するたたずまいから燐侘は一つ確信を得た。
「でも、お母さんはもう――」
 燐侘の言葉を断ち切るように、少年は母親の手をつかみ、半ば背に負うようにしてスクランブル交差点に向かって走り出す。
 とっさに彼らを避けようとした軽トラックが対面の流しのタクシーと衝突する。巻き込まれまいと周囲の車も急停止し、交差点は動きのとれない車両の大渋滞で埋まった。
 車からは誰も出てこない。信号を待つ歩行者も誰一人声を上げない。一瞬の静けさを破るように警笛の音が響いた。ハチ公改札脇の交番から警官二人がこちらへ向かっている。
「キミじゃ無理だ」
 燐侘は母親の体の下に身を潜らせ、モデル体型の長身を活かして一気に背負いあげる。
「ついてきて!」
 燐侘はメッセンジャーバッグを拾いセンター街へ駆け出す。
 突然現れた女子高生然とした女の行動に少年の思考は混乱する。一瞬の躊躇ののち、遠ざかる母親の姿を見失うまいと足は自然と二人を追いかけていた。
 だが決断が遅かった。追ってきた片方の警官の手が少年の襟首を掴まえる。
「母さん!」
 少年の叫びに、燐侘は母親を背負ったまま振り向く。その右手には魔法のように黒く剣呑な形状の拳銃が握られている。
「そのまま!」
 燐侘の声と同時に警官の頭部が破裂した。しかし血と脳漿がぶちまけられるようなことは無い。頭皮を張り付かせた頭蓋骨は砕けた陶器のように乾いた音を立てて散乱した。
 警官の手が緩んだ隙に少年は体を沈め、起き上がりざまにその腹を思い切り蹴飛ばした。頭を失い手足を振り回して起き上がろうとする警官を尻目に、少年は母親を背負う少女に必死に追いすがった。

 

 2

 繁華街のエアスポット。渋谷区円山町のラブホテルの一室が今の燐侘の生活拠点だった。立ち寄る客も従業員の姿すら今は無く、燐侘は気兼ねなく広いスイートルームを利用している。
「お母さんの具合はどう?」
「お腹の赤ちゃんなら大丈夫。安心して寝てる」
 少年は間宮拓人(まみやたくと)と名乗った。母親の名は優衣(ゆい)。優衣は大人が四人並んでも余裕がありそうな超キングサイズのベッドに横たわっている。目を閉じて眠っているように燐侘には見えた。
「そう。胎内の子は生きてるのね」
 燐侘の言葉に小さくうなずく拓人。
「もし差し障りがないなら、お母さんの顔に少し触れてもいいかしら」
 燐侘の意図を図りかねている様子の拓人だが、大きく息を吐くとこれまでの緊張を緩めた。
「あなたが僕たちを食い物にするような悪人では無いと信じるよ。あのおっかない銃で助けてくれた恩もあるし」
「ありがとう。じゃあ」
 燐侘は母親――優衣の頬にそっと手で触れる。皮膚からは体温を感じる。この肉体は生きている。でも。
「キミのお母さんはモナド症候群に罹っている。要するに死んでいる。そうね」
「いまさら強弁するつもりはないよ。母さんも外のヤツらと同じ。体は動くし『仕事』もできる。でももう元には戻らない」
 辛いことを言わせたと燐侘は少し後悔したが、拓人の方は状況を他人に話すことでむしろ心の重りが軽くなった。
「もっと私を信頼してもらいたいの。少し話を聞いて欲しい」
 無言で拓人は続きを促す。
「私の天賦(ギフト)はサイコメトリ。物に触れてその過去をのぞき見ることができる」
 唐突な物言いにも拓人の表情は変わらない。半年前の大異変以後、世の中の常識は大きく変化した。
「お母さん、間宮優衣さんはキミが生まれる前から児童養護施設の住み込みの保育士として休み無く働いていた。お父さんとの間に妹も設けて家族は幸せに暮らしていた。そうね」
「すごいね。なんでもわかっちゃうのか」
「ただの物――服とか愛用のアクセサリの場合はどんな思いが見えるかは運頼みね。でも、モナド症候群で脳を食われた場合は別。体全体に記憶や思いが浸透しているの。死体からも記憶は読めるけれど、生ける屍はそれがずっと長く保持されている」
「そうか……。燐侘さんは脳無しのヤツらが動かしている今の世界では通訳みたいなものだね」
「照れるじゃない。あと私のことは燐侘でいいよ」
 拓人の理解の早さと正確さに燐侘は舌を巻いた。本来であれば小学校を卒業したばかりの年頃だが、「脳無し」と化した母親とこの半年を生き延びてきたのだ。心も人格も失っているとはいえ、脳無しがどのような存在なのか身をもって知ったのだ。
「ところでお母さんはともかく、キミはコンビニに並ぶレーションくらいしか食べてないでしょう?」
 燐侘がそう言うと、その先の言葉を察した拓人の目は丸く見開かれている。
「ご期待に応えましょう! 極秘ルートから調達した食材で料理を作るからちょっと待ってね!」
 ラブホテルのベッドルームには不釣り合いなほど大きな冷凍庫や、運び込んだ本格的な調理器具が自分以外の人の役に立つと思うと燐侘の心も浮き立った。

 

 3

 事の起こりは半年前の大雪の日。天気については関東圏だけの話だが、記録的な大雪と後にモナド症候群と呼ばれる大異変は、燐侘の中で深く結びついている。
 パンデミックとも呼称されたモナド症候群の発症は、通常の感染爆発とは大きく様相を異にしていた。世界中の人間に一斉にスイッチが入ったように速やかに侵略は遂行され、ごく一部の生存者が気付いた時には人類のほぼ全てが脳を食われ生きた屍と化した。
 映画やゲームのゾンビ物であれば、ここから知性を失い捕食者と化した隣人たちとの闘争が始まるわけだが、モナド症候群の発症者――通称脳無しは一見すると極端に無気力なだけの人間に見えた。
 彼らは何らかの存在に脳から記憶を吸い上げられた上で脳細胞を食い尽くされた。それで終わりなら生命維持もできず死亡するだけだが、仮にモナドと名付けられた未知の存在は全身に広がり、肉体の「脳化」を引き起こす。体の操作はモナドが分散処理をしていると見られ、これが不死性のメカニズムとする説が生存者の間では唱えられている。
 ここから先が脳無しのさらに奇妙なところだ。彼らは生前の行動をトレースし曲がりなりにも社会を存続させている。その一方で生存本能を失っており、社会維持に直結しないプライベートな日常生活を営まないことから、食事や怪我の手当などは放置される。モナドによって強化された身体は強靱で長期の行動にも耐えるものの、常に摩耗していくのはフィクションのゾンビとの数少ない共通点だ。
 ただ、最近は得体の知れない缶詰を食らい、長持ちしている脳無しもいると燐侘は聞く。もともと食料生産や流通を担ってきた人々は、脳無しになっても仕事の真似事を続けていた。レーションと呼ばれる人間が食料としてかろうじて利用できるパッケージがそれだが、脳無し用のレーションを見たという噂もある。その中身が血液のゼリーのようなものだというのは、未確認のまことしやかな噂。
 生前の行動をなぞり、社会を維持し続ける脳無しの行動原理はわかっていない。でもただ一つだけ燐侘にもわかることがある。このように世界を変えた存在には、人類に対する苛烈な悪意があるということだ。
 食事中、不意に床が揺れる。
「アレかな」
 燐侘手作りの形の歪んだハンバーグにフォークを入れつつ、視線はそらさずに拓人は言う。
「そうだね。結構大きいし近いかも。確認する」
 燐侘は大型テレビをつけホテルの屋上に設置した監視カメラの映像を出す。カメラは巨大なミミズのような生物を映し出した。身をくねらせながら道玄坂をゆっくりと這い上がっている。ズームをかけると全身の白い鱗が日光を受けて輝いているのが見える。
「十メートル、いや十五メートルまで育ったかな。回収者のメクラトカゲだ。渋谷の主(ヌシ)だよ」
 社会的な役割を果たしている脳無しは体を磨り減らしながらも自立的に行動する。一方、そうした役目を与えられなかった者は屋外に出て路上にしゃがみ込んでいることが多い。屋根のある快適なねぐらを求める人間の本能は失われ、日光と雨水を待つ植物のような存在と化している。
 彼ら停滞した脳無しにとって、地中を掘り進み蠕動運動で前進するメクラトカゲは天敵だ。時折地上に現れ、動かない脳無しを一呑みにする。メクラトカゲが社会に不要な脳無しを食うことから回収者の名がついたが、そこにはもう一つの生態が織り込まれている。
 太って動きの鈍いメクラトカゲを殺して腹を捌いたところ、卵胎生の体内の卵の中からまっさらな脳無しが見つかった。それが食われた脳無しと同一人物なのかはわかっていないが、減る一方の脳無しを再生産して補充するサイクルが回っているのは確かなことのようだった。
「アレって動かなくなったヤツらを食べてまた産むってホント?」
 じっと映像を見ていた燐侘の考えを読み取ったかのように拓人は聞く。
「そう考えるしかない証拠はあるみたいね」
「それって脳無しが子供を作らないから?」
 拓人の問いに燐侘は慎重に答える。
「脳無したちが仕事しかしないのは本当。それ以外の時間は無為に過ごしているのもよく見るとおり。もちろん個体差はあるし、さっきの警官みたいに意思をもって動いているように見えるのもいるけど」
「じゃあ、お母さんはちゃんと子供を産めるのかな」
 答えにくい問いだった。脳無しが子供を産むなどという話は聞いたことが無いし、言われてみれば考えたことも無かった。
「さっきお腹の子は大丈夫って言ったわよね。でも脳無しになってしまった人間の体は根本から作り替えられていると聞くわ。なぜ赤ちゃんのことがわかったの?」
 質問を返された拓人は、うつむいて考える素振りを見せてから、じっと燐侘の目を見た。
「僕のギフトは透視。壁やビル一つくらいなら向こうで何が起きているのかわかる」
 嘘をついている目ではないし、その必要も無いと燐侘は感じた。半年前に脳無しにならず人のままでいられた生存者のなかには、こうした異能を持つ者が多くいる。
「だからわかるんだ。お母さんがはじめてお腹の妹のことを教えてくれたとき、僕にはお母さんとは別の命がそこにあるのが見えた。それは今も同じだし、あの子は外に出たいといつも言ってる」
「ええ、胎児の気持ちがわかるの?」
 からかうような調子で燐侘が聞くと、拓人は照れくさそうな顔を見せた。
「水の中でも口を開けてなにか言おうとしてるんだ。だから生まれたいって言ってるのかなって」
「そうか。それで拓人は妹の願いを叶えたいわけだ」
 大きくうなずき、少し考えてから拓人はおずおずと切り出した。
「……実は燐侘、頼みがあるんだ。お母さんがちゃんと妹を産めるのか僕にはわからない。僕たちをお医者さんに連れていってくれないかな」
 若干十七歳の燐侘だが、堂に入ったサバイバルの立ち回りからか、あるいは元々人に与える印象からなのか、こうした依頼を受けるのはよくあることだった。
「いいよ。当てがあるわけじゃないけど」
 素っ気なく引き受けると拓人は子供らしい歓声をあげた。
「本当! お礼とか何もできないけど本当にいいの?」
「子供と妊婦さんから見返りをもらう気はないよ。でも私が手助けして、もしもうまくいったら、今度は私のお願いを聞いて」
「でも僕にできることなんて……」
「いいって! 出世払いってやつ!」

 

 4

 当てはないと燐侘は言ったが消去法で対象を絞ることはできる。まず病院はほとんどだめだ。脳無しの医者や看護師はいるが肝心の患者が来ない。そこに人間が行ったところでまともな診療が受けられるわけもない。医者か看護師を見つけることができれば解決しそうだと燐侘は踏んだ。
「じゃあ謝礼は円山町の安全に使用できるホテルの情報で」
 燐侘が駅構内の公衆電話を切ると、拓人は魔法でも見たかのような顔をしている。渋谷区周辺の生存者のリストは存外たやすく入手できた。渋谷の情報屋に電話をして名前と住所のリストを聞き出したのだ。
 大異変以後、通信インフラが機能不全になって久しい。社会インフラが脳無しの手に渡ってからも、しばらくはネットや携帯端末が使えたが一週間も持たなかった。その後生存者の間で頼りにされたのが電話線に繋がっている固定電話だ。
 渋谷の繁華街やビルの中にはいまでも公衆電話が設置されている。みなスマートフォンを持ち歩く時代でも、災害時には繋がらなくなる脆弱性を無線通信システムは抱えていた。そうした時でも専用の電話回線を用いた公衆電話は強い。人の集中する地域には、通信のライフラインとして公衆電話を残しておく定めがあるのかもしれなかった。
 もっと言えば、もし電話番号もわからない時は郵便が使える。ローテクなシステムほど、文明を模倣しているだけの脳無しでも機能不全に陥らないというのは、この半年で生存者が得た教訓だ。
 連日の真夏日の中、紙の地図に印をつけた生存者を探し、話を聞く日々が続いた。燐侘が先頭にたち、母親の手を引く拓人が周囲を警戒しながら続く。能無しの母嫌は一言も声を発することはないが、拓人や燐侘の指示には素直に従った。ビル街には往事と変わらないほどの脳無したちが行き交っているが、住宅地にまで出ると人影は途端に少なくなる。
 妊婦の優衣がいなければ自転車なりバイクなりを使いたいところだった。車が使えればベストだったが事故が懸念された。歩いていても脳無しの多くは人間を認識していない節がある。コンビニの店員などは品出しや掃除こそするものの、接客という概念が抜け落ちている。
 自動車も脳無しだけの場合は実によく統制されているが、そこに人間の運転する車が紛れ込むと認識の乱れが起こるらしく、こちらが突破していくくらいの勢いでいかないとむしろ危ない。交通量の多い今回のエリアでは徒歩が一番確実な移動手段だった。
 リストはなかなか正確で、二件に一件以上の確率で相手を探し出すことができた。家族や数人の集団で暮らしている者もいたが、都心では一人で暮らしている者も多かった。人間同士で助け合わずとも、脳無したちの社会に寄生して暮らすことが可能だからだ。
 人間のセンスとはかけ離れていても、加工食品は生産され流通していたし、大きな冷凍倉庫には解凍前の肉や魚が山ほど積まれている。生鮮食料品を諦めれば単身の都市生活者にとっては悪くない環境だ。
 他の生存者とコンタクトを取る時は燐侘が一人で出向き、拓人と優衣は姿を見せず側で待機した。脳無しを連れ歩いている時点で警戒されることが懸念されたからだ。
 渋谷周辺の生存者の年代は概ね若かった。小さな子供のいる家庭もあったが、大異変以後に出会い一緒に暮らし始めたということだった。燐侘は家族全員が脳無しにならず生き残ったという話はこれまでに聞いたことが無い。生存確率は数万人に一人と推定されている。東京のようなメガシティであれば歩いて行ける距離に他の生存者がいる確率は高い。しかし過疎地では世界で生き残ったのは自分一人と思い込んでいる生存者がいてもおかしくはない。
「医学部生のいるグループがあると聞いています」
 手がかりをつかんだのは四十歳前後に見える女性からだった。加納と名乗った女は元からの住居だという高層マンションに、ペットの大型犬と暮らしていた。いわゆる富裕層の家系らしく、大異変の直後にクローズドな情報網に触れることができたと言う。今は情報網そのものにはアクセスできないが、そのときの縁で比較的安定した暮らしができていると言う。
 グループの連絡先は情報屋のリストにはないものだったが、情報屋の方もどこまで情報を出したかについては触れていない。安全なホテルの情報に見合うだけのものが得られたということだろうと燐侘は一人納得した。
「医学部生はお医者さんじゃないんだよね」
 単刀直入に拓人は確認する。
「ドラマで見たことあるけど、病院で研修してるくらいの人なら大丈夫かも……ね。でも本物のお医者さんを知ってるかもしれないし聞いてみようよ」

 

 5

 加納は医学生のいるグループの電話番号も教えてくれた。彼らは渋谷再開発区画の真新しい地下街を拠点にしているということだった。まだ生きている固定電話を確保できているのだろう。燐侘がコールすると若い男性が出た。医者を探していると伝えると力になれるかもしれないと言う。電話が繋がった時点で情報を教えてくれるならそれが一番なのだが、向こうも見ず知らずの人間に重要な情報を渡せないということなのかもしれなかった。
 待ち合わせ場所は広い地下駐車場が指定された。これでは拓人と優衣を近くにおいたまま姿を隠すことは難しい。燐侘は一人だけで話を聞きに行くことも提案したが、燐侘が戻らなかった場合拓人たちのその後の安全が確保できない。優衣が同席するなら脳無し特有の無表情な顔が露呈する。優衣にはパーカーのフードを深くかぶってもらい、拓人とともに燐侘の真後ろに立って情報交換に臨むこととした。

 電話に出た男は榊(さかき)という名前だった。大異変の前は医学部四年生だったと言う。燐侘にはよくわからないが、まだ実践的な経験は積んでいないとのことだった。
「それで、医者を探していらっしゃるとか」
 榊は育ちの良さそうな丁寧な口調で話す。燐侘はきっと親も医者だったんだろうと偏見混じりの感想を抱く。もう一人、榊の横に立つ長身の男は口を結んだまましゃべらない。もっともこちらも女子高生に十三歳の少年に母親然とした年頃の女性という、今では珍しい取り合わせだ。どちらかと言えば若い者同士で地下街を管理して拠点にしているグループの方が合理的だと言えた。
「ええ。私たちは旅の道連れです。この女性が出産を控えているので、安全な場所で適切な措置を受けたい。それだけです」
 燐侘は明かせる情報はごまかすことなく伝えた。あとは先方の出方次第。
「なるほど! よくわかりました。こんなご時世です。出産と一口に言っても不安になるでしょう。それに生存者から新しい世代が生まれるのは喜ばしいことです」
「じゃあ、誰か心当たりが?」
 榊の言葉に自然燐侘の口調にも期待がにじむ。
「ええ、心当たりはあります。あなた達がそちらに迷惑をかけるような方ではないこともわかりました」
 榊は一度言葉を切り、改めて続けた。
「ただ条件として私たちのグループに入っていただきたい。力のある生存者コミュニティはこの東京でもまだ少ない。特に健康な女性は貴重だ」
 榊の紳士的な振る舞いの裏が透けた。燐侘はもちろん拓人もこの男の本性を垣間見た。このグループは極限状況下で自分たちに都合の良い支配体制を作ろうとしている。そして燐侘たちは仲間ではなく彼らの奴隷として求められている。
(逃げるわよ)
 燐侘は背後の拓人に囁く。
「どうかしましたか?」
 榊の問いに何でもないとかぶりを振り、互いの合意を確かめたいと理由をつけ握手を求めた。笑顔で応じる榊と手が触れた。ほぼ確信に近い予感はより下劣な内容だった。榊の深層意識を読んだ燐侘のサイコメトリは告げた。
「拓人! 後ろの出口は?」
 事前にこの駐車場の出入り口は確認済みだ。車の出入りする路面に面したゲート以外に、地下街に続く通路が左右と背後にある。ゲートは正面の榊たちの背後にあった。
「見えた。左右は閉まってる。開くかどうかはわからない。後ろは開いてるけど……二人来る! どっちも男!」
「挟み撃ちってわけね」
 態度を急変させた燐侘たちに榊も本性を隠さなくなる。
「そんな慌てなくていい。医者にかかるのはここで一晩過ごしてからでも遅くないだろう」
 榊が顎をしゃくると、燐侘たちを取り押さえようとでもいうのか大柄な方の男がにじりよってくる。
「逃げても挟み撃ちになるだけ。正面突破で行くわよ」
 燐侘はバックサイドホルスターからすでに携帯していた無骨な大型拳銃を引き抜く。
「ユーザー認証、セイフティ解除」
「銃だと! おい、やめろ!」
 榊が叫び大柄な男も思わず後じさる。かまわず燐侘はシークエンスを進める。
重力子誘導弾、出力下限値で射出」
 弾丸は燐侘のリクエスト通り拳銃から射出された。榊たちの足下にめり込みコンクリートの床に円形の亀裂を走らせる。
「出力ホールド」
 燐侘の指示(コマンド)を受けて、弾丸の撃ち込まれた領域は異常な力場を保持し続ける。足下からの強力な重力に耐えきれず、榊ともう一人の男は膝をつき床に這いつくばる。
「燐侘、この銃は……」
「警官の頭を吹っ飛ばすだけじゃないのよ。こんな使い方もできるの」
 燐侘は抵抗できない男たちに触れ、探り当てた武装を解除する。
ライプニッツ、サイコメトリ・ログを同期して登録」
 拳銃にライプニッツと呼びかけ、サイコメトリで得た情報をグリップのセンサーに読み取らせる。
「これでどこへ逃げようともどれだけ潜ろうとも、この銃(ライプニッツ)の弾丸は必ず当たる。邪念は捨てて」
「どうした。もう片付けちまったのか」
 しびれを切らしたか、男たちにとっては最悪のタイミングで待ち伏せ組の二人が背後から現れた。
「やめろ! こいつら銃を――」
 榊の叫び声が燐侘の手にする拳銃へ視線を誘導した。駆けつけた一人が銃を引き抜こうとする。
 おもむろに燐侘は拳銃を上に向け弾丸を射出する。天井すれすれで停止した重力子弾は燐侘の意図通りコンクリートの床を幅二メートルほど「引き上げ」即席の壁で後続の二人を封じ込める。
「くだらない茶番はこれで終わり。心当たりの医者のことは覚えてる? もう思い出した?」
 燐侘の問いかけに榊はがくがくと首を縦に振る。
「そう。じゃあ最後に一発!」
 燐侘は榊の頬を力の限りひっぱたき意識にあがっていた「心当たり」を入手した。

 

 6

 東京都下。府中市で医院を開業している中野奈々子医師を訪ねたのは翌日のことになる。渋谷からは距離があるため、初めての電車移動となった。
 脳無したちには職場はあってもプライベートは存在しない。そのため帰るべき家を持つ者は少ない。よって通勤する者もなく旅客電車は例によって人類社会の真似事に過ぎない。それでも一時間に一本ほどの電車が往来している。
 中野医院はもともと小児科医院だったが、大異変以後は継続的な加療を受けなければならない近隣の生存者の寄り合い所帯となっている。中野医師は医療全般に対する知識と経験に加え、体調を目で見ることのできる共感覚を持っていた。以前はオカルトじみたことには口をつぐんでいたが、ギフトを持つ生存者が存在感を増すほどに自身の持つ共感覚も医療の手段として受け入れている。
 中野医師が生存者に含まれていたことは世界にとって僥倖だったが、看護師も薬剤師もまだ見つけられないでいる。そこで中野医師は脳無しとなったそれまで雇用していた看護師をそのまま勤務させている。会話はできずとも必要な措置は看護師だった頃の記憶で対応できる。人間と脳無しの共存する姿がそこにはあった。
「じゃあ私はもう行くね」
 玄関まで見送りに来た拓人と中野医師、そして優衣に笑顔を向ける燐侘。
 中野医師にとっても脳無しの優衣の出産は未知数のものだ。それでも拓人と燐侘の願いを医師は快く引き受けた。
 優衣は児童養護施設の保育士として休み無く働いていた生活をトレースしているため、脳無しとなっても日常生活にさほど破綻を来していないのだと燐侘は推測している。そしてこの医院の人々と拓人の支えがあれば、産後に赤ん坊を育て上げることは難しくないように思えるのだ。
「燐侘はさ、またここに戻ってくる?」
 拓人の本心ではまだ燐侘にここに残ってほしい。一緒にいてほしい。でもそれは燐侘への甘えに過ぎず、彼女の役割を縛るものだとも理解していた。
「言ったでしょ。私は拓人と優衣をお医者さんの元まで送り届けた。その見返りは出世払いだって」
「シュッセバライのために何をすればいいのかまだわからないけど……母さんと妹は僕が守る。そしてこの場所をたくさんの人が安心できる場所にするよ」
「なんだよわかってんじゃん」
 拓人の額を指先で軽く小突くと、燐侘は大きなメッセンジャーバッグを肩に掛け直しそのまま医院を出て歩き出す。振り返りはしない。次はこの場所を目にしたらまっすぐ駆け寄るのだから。