二人の食卓

『二人の食卓』



 1DKのキッチンから、千夏の小さな悲鳴とともに盛大に何かをひっくり返す音が聞こえた。
「大丈夫か!?」
 眺めていた雑誌を放り出し、浩紀は急いでのぞき込む。水びたしの床にはパスタ鍋が転がり、半泣きの千夏が座りこんでいた。
「火傷は!? どこかぶつけてないか?」
「……うん、大丈夫。ガス台にかけようとしたら重すぎて手をすべらせちゃって」
 浩紀は千夏の手を取って立たせると、小さな肩や背中に触れて異常がないことを確かめる。パスタ鍋を火にかけようとして、自分の方に向けて倒してしまったらしい。小柄な千夏にはガス台が少し高かったようだ。デニムのエプロンはもろに水をかぶっている。
「とりあえずここは拭いておくから、チカはエプロンを洗濯機に入れて」
「ごめんねヒロ兄ぃ。中も水かぶったみたい」
 エプロンの前を手で開けてのぞき込みながら、千夏が情けない声をだす。
「あー、今日は着替え持ってきてたろ。体拭いて着替えろ。タオルは洗濯機置き場の棚に洗濯済みのがあるから」
「うん……ごめんね」
 重い足取りで千夏はユニットバスのほうに向かった。
 キッチンの上には挽肉と玉葱、トマト缶が手を付けられずにあった。今年から大学生の一人暮らしをはじめた浩紀は自分ではあまり料理をしない。それでもミートソースの材料だろうとあたりがついた。缶入りのミートソースしか扱ったことがなかったので、家庭でも作れるものだということに初めて気がついた。
「さて、と」
 水のしみこんでしまった靴下を脱ぐと、浩紀は雑巾で床を拭きはじめた。二リットルくらいの水がこぼれたのだろうか、結構な量だ。水だまりに雑巾をひたしてはシンクで絞る。
 部屋の方に人の気配が戻った。着替えてきたのだろう、浩紀は何とはなしに目をやる。まだ下着姿で頭からタオルをかけただけの千夏の姿があった。十七歳にしては小柄で未発達な体。今日泊まりに来るのに持ってきた、大きなバッグに手をかけた千夏ともろに目があった。
「こっち見んな、バカッ!」
「あ、いや、もう着替えてると……」
 罵声とともにそこらにあったボックスティッシュが投げつけられた。
「ごめん、降参、あやまるから!」
 さらにフリーペーパーと空のエコバッグも投げつけてから、千夏はバッグを引きずってキッチンからの死角に移動した。
 千夏が視界から消えて、ようやく浩紀は両手を挙げた降参のポーズをといた。ちらっと見ただけだが、千夏の腕や腹部には痛々しい治療跡が見えた。下着姿よりも、その傷跡を見てしまったことが悔やまれた。


「なあ、晩飯は外にしよう」
 着替えてきた千夏に浩紀は提案した。
「今日の食材もそんなすぐ傷むものじゃないみたいだし。チカのはじめての手料理は明日の楽しみにして」
 千夏は仏頂面の残る表情で少し考えて、うなづいた。
「ヒロ兄ぃがそれでいいなら」
「どこがいい?」
 千夏は少し距離の離れたファミリーレストランの名前を口にした。大きくチェーン展開はしていないが、雰囲気が良く接客も丁寧でこの界隈では人気がある。
「OK、じゃあ上着きて出よう」
 アパートのドアを開けると涼しいと言っていい夜気が流れ込んでくる。来週にはもう十月だ。残暑の日もめっきり少なくなった。浩紀は千夏の手を取って二階からスチール製の階段を降り、頑丈なのが取り柄の自転車を出した。
 少し風を感じるが湿気はない。空に雲はなく、上弦の月が西の空にくっきり見える。千夏は荷台に横座りで乗り、LEDライトをつけた自転車は住宅街を走り出した。
「薬、持ってきたか」
「……うん」
「なあ、今日は家にいなくても本当に大丈夫なのか」
「うん、うちの家族もヒロ兄ぃのことは信頼してるから」
「信頼……か。なんだか微妙な気分だな」
「だって、昔からのチカを知ってるのはヒロ兄ぃだけだもの」
 しばらくの無言。自転車が国道に出た。自転車の二人乗りは警察につかまるんだったっけ。浩紀はぼんやりとそんなことを考えた。
「ねえ、ご飯食べたら河原で花火しようよ」
 不意に千夏が切り出した。
「馬鹿言え、もう花火なんて売ってないよ」
「いや、あるね。ほら、ドンキとかさ」
「周りの人に迷惑だろ」
「うるさくない花火なら大丈夫だよ。線香花火とかそーいうの」
 あくまで食い下がる千夏に浩紀は今年の夏、千夏がほとんど外出許可をもらっていなかったことにあらためて気がついた。
「そうか……探せばまだあるかもな。俺の友達に夏の残りを余してる奴もいるかもしれないし。携帯で聞いてやるよ」
「うん、うん! 絶対やろう、花火やろう!」
 千夏はこどもみたいにはしゃいでいた。その明るさが浩紀の心をかえって暗くした。自転車を漕ぎながら、いまの顔を千夏に見られなくてよかったと思った。
「来年まで待てなくてごめんね」
 小さくつぶやいて千夏は浩紀の背中に顔をうずめた。浩紀はこたえず、ただペダルに力を込めた。進行方向の月が霞んだ。

電車のムンク

『電車のムンク




『ぶっ殺す』
 簡潔で過激な文字が目に飛び込んだ。ノートPCの液晶画面から躍り出て、まるでそこだけ輪郭が強調されたかのように感じられた。鼻白み、PCのタッチパッドを滑る指先が止まった。
 ブログのコメント欄に表示された時刻は二十分前のものだ。記名欄は空白になっている。勤めから帰宅し、いつものように確認した自分のブログだ。僕のブログは記事を書いたはしからコメントが付くような人気サイトではないし、スパムコメント前提で煽りネタや時事ネタを扱うようなたぐいでもない。
 友人たちに日々の出来事を伝えられれば十分な、せいぜい映画とか本とか自分の感想を共有できれば、という程度ではじめた他愛ないものだ。毎日更新しているおかげで、いわば常連とでもいう様なネットでの知り合いもできた。それでもたまに、コメント欄に反応があればいい方だ。
 今日だって夕方の通り雨で濡れた事くらいしか書いていない。こんな物騒な、しかも無記名のコメントが付くような心当たりはなかった。
 ……いや。一つの連想が形を成す。これは「ムンク」の書き込みなんじゃないか?
 その途端、暴風のように嗜虐的な感情が沸き起こった。僕はモニタをにらみつけ書き殴った。
『上等だ! 明日の夜、新木場で降りろ。公園に来い』


 ムンクというのは僕がつけたあだ名だ。通勤電車でよく見かける男につけたものだ。
 ひどく小柄な男だ。やせぎすで背広が中学生の制服のように見える。満員電車の中、いつも両手で耳を押さえ、両目をきつく結んでいる。乗車中、吊革にもつかまらず直立不動でその体勢を保っている。ムンク「叫び」を連想させる、このポーズがあだ名の由来だ。
 満員電車が好きな人などまずいない。ムンクのひどい貧乏揺すりと頻繁な舌打ち、そして男の発する得体の知れない雰囲気は、周囲の不快指数を一層高めていた。そして東京駅に着くと、男は一心不乱に車外へ駆け出す。周囲の乗客の安堵と、奇異の眼差し。
 一週間前、僕は偶然ムンクと隣り合わせになった。間近で観察すると、小声で常になにかつぶやいている。電車が揺れ、僕の足が彼に触れた。ムンクのつぶやきは一瞬途絶え、数秒後また再開された。何駅か過ぎた頃、そこだけ声が明瞭に聞き取れた。『ぶっ殺す』。
 その瞬間、僕の中で何かが弾けた。突然爆風のように、彼に対するサディスティックな妄想が際限なく膨らみはじめた。この貧弱な体格だ。肩を押しただけで簡単に転がせるだろう。耳を押さえたままうずくまるムンク。その腹に食い込む自分の靴先を想像した。低いうめき声に構わず蹴りを入れ踏みつける。ぐったりとしたところで胸ぐらを掴みあげ、妄想の自分は彼の体を激しく電柱に打ち付ける。容赦なく僕は男を小突き回す……。
 ムンクは普段通り東京駅で逃げるように降りていった。この顛末をおもしろおかしくブログに書いたのがその日の晩だ。無論、自分の暴力を欲する情動などおくびにも出さなかった。

『通りすがりのコメントにキレるなんてらしくないですよ』
 翌朝ブログに付いていたのは、付き合いの長い友人からのそんなコメントだけだった。
 しかし、僕の中には確かな感触があった。あのコメントはムンクだ。奴は僕の返信を読んだに違いない。
 ネクタイを締め、いつも通り鞄を手にする。そして社内の野球チーム用に購入したバットケースを肩にかけた。確かな重量が僕の心に暗い震えを走らせる。
 開いた右手を握り返す。肉を打つ金属バットの感触を、僕は確かに感じていた。

リハビリ

『リハビリ』



 視界の片隅がチカッとまたたいた瞬間、俺の全身は千度の火炎に包まれていた。テロリストどもが最近使い始めた、燃焼剤入りのカクテルボムだ。外気から閉鎖された地下道でこれを使われたら、首都警の重ジャケットでも耐えられない。まず酸欠で脳がやられる。
 そんなことをぼんやり考えることができるのは生きのびたからだ。俺は周囲を見回そうとしたが、全身の感覚が無い。視覚のみ生きているがまばたきができない。皮膚が焼けたせいで、再生槽にでも入れられているのだろうか。
 視界に特徴のある彫りの深いヒゲ面が映った。これまで見えていた白っぽい光景は病室の天井だったようだ。人物は救命救急センターのドクターイブラヒムだ。移民ながら実質このセンターの中心人物で、中央へのコネクションも太いという噂だ。俺も身体強化ドラッグ絡みのヤマで何度か意見を求めたことがある。
 イブラヒムは俺の目を覗き込むと手を振って、何事かしゃべった。何を話しているのかは全く聞こえないが、周囲に何人かいるようだった。少し不愉快な気分になり口を開こうとした瞬間、俺は意識を失った。


 二度目の覚醒には音が付いていた。見えているのはまたイブラヒムだ。
ヤマザキ巡査、私が見えるかね?」
 俺は肯こうとしたが、相変わらず身体感覚は喪失したままだった。
「ああ、起きているようだね」
 イブラヒムは周囲になにかの表示を見て取ったようだ。
「まだ多少の不自由はかけるがもう少しだ。すまんがもう少し眠っていてくれたまえ」
 どこが“多少”だ、と言い返したかったが奴は俺の意識を自由にオンオフできるようだった。「呪われろ」という呟きはイブラヒムには伝わらなかっただろう。


「きみが今生きていられるのは爆発の瞬間気絶したおかげだよ。他の連中はジャケットのおかげで身体は保護されたが、その後の酸欠で脳死してしまった」
 三度目のドクターとの会見は不愉快極まりない状況で始まった。視聴覚は回復したが、まだ体はコンクリートに埋められたように感覚が無い。
「で、俺はくたばり損なって回収されたと」
 気味の悪い甲高い合成音が響く。これが今の俺の声らしい。
「そう。意識不明のうえ、鎮静剤が体の酸素消費量を抑えたのが良かったな。ただしきみの体はジャケットに焼きついてしまって、再生も不可能な状態だった」
「で、この体は? なにか特殊な義手なのか」
 俺はリクライニングベッドに背をもたれかけさせながら、唯一自由になる両手を見た。オレンジ色のちんちくりんな手が目に入る。動くことは動くが触感が無い。指先も首も動かないので毛布に隠された下半身は見ることができなかった。
「実は手だけじゃない」
 イブラヒムは哀れむような表情で、しかしどこか得意げな日本語で言った。
「きみの全身は機械に換えさせてもらった。生身の部分は中枢神経のほとんどと舌だけだ」
 反射的に俺は舌で唇を舐めた。滑らかなプラスチックのような触感が伝わる。目覚めてはじめて生きている感覚を味わった。
「この措置は首都警特別法の人身保護特殊条項によって行われた。君の身柄はしばらく首都警の管理下に置かれるが異存はないかね?」
 ハッと俺は笑った。残念ながら音声にはならなかったが。
「重ジャケット隊に配属された時点で金玉までお上に持ってかれたようなもんだ。あんたのほうがよく知ってるだろ。」
「それは覚悟のよくできていることだ。きみの上司から受けた報告通りの精神面での強靭さだ」
 イブラヒムは安心したように笑みを浮かべた。所属は違えど彼のような、俺から見たら遥か上の地位の人間がここまでの配慮を見せるとは正直意外だった。
「で、なんだ俺はロボコップにでもなったのか?」
「……あぁ、昔そんな映画があったな。似たような物だがこの国にはもっと愛されているロボットがあるだろう? 鉄腕……なんとかとか。むしろそちらに近いな」
 イブラヒムの微妙な語調に俺は悪い予感を感じた。奴の差し出した一枚のスチール写真が目に入った。大きな耳に特徴的な触角。そして鮮やかなオレンジ色に染まった全身。
「……ピーポくんか」
 気が遠くなる感覚と共に巨大な喪失感が襲ってきたが一瞬のことだった。この機械の体のバイタルセンサーは、情動を完全にコントロール下に置いているようだった。
 俺は今後SPとして重要人物の警護に“さりげなく”置かれるそうだ。ほかにもなにごとかドクターはしゃべっていたが、俺は聞いちゃいなかった。重ジャケットの倍以上の強靭さを誇るというこの体をどうしたら壊せるのだろうと考えながら。

遺品

『遺品』



to:高野均巡査部長どの
from:柏木涼子
title:メモリ解析の件
date:2035年5月28日9時32分


 先日依頼いただいた携帯メモリの解析結果ができましたのでお送りします。このメールに添付したホロデータをお手持ちのデッキにて展開してください。できれば所轄のホロスタジオを用いられることをお勧めします。安全のためデータは巡査部長の公開鍵にて暗号化しています。
 サマリーはいつものように紙綴じの和文タイプ様式でホロの一番最初の地点に置いてあります。すべてのメモリ内情報にそこからアクセスできますが、今回のメモリには一つ大きな特徴があります。
 データはテキストデータだけでした。本件のメモリ所有者は一切の電脳化を受けていないホームレスだったと依頼文書にありましたが、バイタルデータはおろか、音声も映像も入っていませんでした。すべてが所有者によって打ち込まれたテキストデータ、それもおそらくはひとつの『小説』です。
 私には電脳セキュリティとホロデータ解析の専門家としての仕事は無きに等しかったのです。確かに今回持ち込まれた携帯メモリは非常に古いタイプで、インターフェースは自作せざるを得ませんでしたが、メモリサイズは一〇〇ギガバイトと取るに足らないものでした。最新鋭のバイタルセンサーなら数秒で食いつぶしてしまう容量です。
 意味解析をかけてこれが一つの物語であると判断した時点で、AIにVRホログラムを作らせてみました。驚くべきことに一つの世界、そして複数の人種と数多の人々の物語が緻密に描かれていました。まずはこのホログラムをご覧いただくのが手っ取り早いかと思われます。


 以下は個人的な感想です。昨夜ホロデータへの解析作業をAIに任せている間に、文章量を千分の一に要約したダイジェストテキストを作り読んでみました。一晩かかりましたが読む目を休めることが出来ませんでした。お許しをいただければ巡査部長にこのデータが渡った後も、複製を破棄せず手元に置いてもよろしいでしょうか。ぜひ彼の残したこのテキストを全て読んでみたいのです。
 ホームレスとして生活していた生涯のうち、三〇年近くをかけてこの文章は書かれています。彼がなぜこのようなものを残して死を選んだかは知る由もありませんし、私の仕事の分を超えます。捜査とは無関係に、ただ物語の全てを読んでみたいという好奇心が抑えられないのです。

 了承いただけることを願っております。仕事の都合が合えば、また湾上新区のバーでもご一緒しましょう。大学同期の吉野がいい店を見つけたと言っていました。あなたのいつか言っていたシングルモルトがあるとか。
 激務ゆえ体だけはご自愛ください。それではまた。

渡り

『渡り』



「胸の上で両手を組んだまま眠ると悪い夢を引き寄せる」
 そう言ったのは祖母だったろうか。それとも夏休みで祖父母の家に遊びに来ていた、三つ年上の従姉だったろうか。
 その晩十歳のぼくは興味に駆られて手を組んだまま眠りについた。その時の夢は今でもはっきりと覚えている。
 すすき野原にぼくは立っている。薄暮を過ぎて空には星が瞬きはじめている。初秋のようだ。わずかに肌に触れる風は、歩きどおしだった体の火照りを少しずつ奪っている。
 虫の声一つしない野原に立ちすくみ、ぼくは何かを待っている。おそらくは一緒に家路につくことを約束した従姉だ。彼女とはぐれ、万一の待ち合わせ場所として野原の中ほどにある小高い丘を決めてあったのだ。
 その時鳥のような声がした。上空を見上げると数百は超える鳥の群れが西へ向かって渡っている。かなりの上空を飛んでいるわりにはその体躯は大きい。地平線に没した太陽の光が彼らには届いているのか、朱鷺色に照らされている。ヒョウヒョウという鳴き声ははじめて聞くものだった。しかもその姿がどうもおかしい。翼らしきものが見えず、どうみても両手を広げた人間のように見える。
 思いのほか速いスピードで群れは西の空へ飛び去り、やがて肉眼では追うことができなくなった。
「あれは河童の渡りよ」
 不意に従姉の声がした。ぼくが上空に気を取られている隙に近くまでたどり着いていたらしい。
「河童は夏の間は川に住むけど、冬になると山へ向かうの」
 そんな話ははじめて聞いたが、当時のぼくは従姉のことを信頼しきっていたのでそのまま信じた。
 後年、大学で民俗学のゼミを取ったぼくは、河童の異称にヤマタロやヤマワロというものがあることを知った。西日本の河童伝承には実際に山と川を季節ごとに移動するものがあるらしい。
 十歳のぼくの夢に出てきた河童は本当に夢だったのか。あるいは手を組んで眠ると悪い夢を引き寄せるという話を聞いたときに、一緒にこの河童の伝承も聞いていたのか。祖母も亡くなった今となっては確認のしようも無い。
 それでも今になっても眠りにつく際、両手を組んでは不思議な夢を見られないものか夢想することがある。確かにぼくは河童を見たのだという確信はこの先も揺らぎそうは無い。

挿話:アザーサイド

『挿話:アザーサイド』



「やるきがおきない」
 実験体三十二号に直結しているスピーカーが響いた。生まれて初めてしゃべった言葉がそれだった。
安曇野センセ、どうしましょ」
 オペレーターの滝本エレクトラは生来ののんびりとした口調で言った。振り向きざまに見事な金髪がゆれる。
「とにかく回線は繋いどけ」
 安曇野清隆は唸った。
 実験体三十二号は培養ポッドの底に沈んで微動だにしない。ポッドのなかは高酸素含有溶液で満たされているため、陸上活動に適した改造人間でも問題なく呼吸ができる。
「やっぱりオオヤドカリのDNAがまずかったんスかね」
 実験体三号、通称フナ虫男が軽薄な口調で言った。
「ヤドカリだけに貝にひきこもりって」
「おまえも一応助手ならDNAパターンの再チェックくらいしとけ!」
 大げさに肩をすくめると、フナ虫男は長い第二触角を揺らしてコンソールに向かった。広い研究室内にはこの三名しかスタッフはいない。
 出来そこないの改造人間に命じて、安曇野は椅子に深く沈みこんで眉根を指で揉みほぐす。
 安曇野の眼下、くぼんだ実験槽に並んだポッドの一つで三十二号は沈黙したままだ。鈍い光をはなつ超硬質複合装甲シェルの空殻にもぐりこんだまま、強力なハサミで入り口を閉ざしている。
 加速培養中の教育プログラムに問題があっただろうか。それとももっと根本的な神経系のトラブルか。DNAシミュレーションでの成績が良好だっただけに、安曇野は落胆を隠せなかった。
 なにより三十二号計画には通常の倍近い予算が投じられている。敵との戦闘で敗れるのならまだしも、そもそも戦闘に投入できないのでは“あの御方”への申し開きが立たない。
 失敗作を連発し、最終的には自ら計画の被検体となって散っていった歴代博士の末路に思いをはせて安曇野は怖気をふるった。
「三十二号聞いているか?」
 マイクを入れて安曇野はごく穏やかな口調で語りかける。三十二号に直結しているモニター回線から、言語野が活性化しているのが見て取れた。
「コンビニ帰りのきみを合意無く拉致したことについては謝ろう。我々は非合法組織だ。話し合いなどの過程を経て、外部に情報が漏れるのはまずいのだ」
 安曇野は徐々に口調に熱を込める。
「しかしきみとて今の状況に不満はないはずだ。その外観はきみの変身願望そのものだ。どんな悪辣な苛めにも屈せず、その凶悪な両腕で憎いクラスメートを薙ぎ払いたいのだろう?」
「情動モニターに反応。パターンレッド」
 エレクトラが事務的な口調で告げる。
「やる気がでないなんて嘘だろう? 体の内側から無限の破壊衝動が湧いてきているはずだ。我らが首領ジブリール様の御力が注がれているのがわかるだろう?」
「……いや、ぼくは駄目だ」
 疲れ果てた口調で三十二号はこたえた。情動モニターも急速にゲインが落ちる。
「なにもしたくないんだ。役に立たないなら殺してくれ」
 安曇野はマイクのスイッチを切った。
「まいった……こんなケースは初めてだ。ここまでマインドコントロールを受け付けないとは」
「くっくっ、私みたいに人間の頃の記憶がそのまま残っちまったんじゃないですか?」
 フナ虫男が妙にキーの高い声で軽口をたたく。
「おまえの頃とは技術水準が違う! とにかくこのままジブリール様にお目通りをかなうわけにはいかん。エレクトラ君、三十二号の残存記憶を念入りにスキャンし直してくれたまえ」
 命じると安曇野は白衣を脱ぎ捨てて立ち上がる。
「はい。センセはどちらへ?」
「三十二号が人間のころ通っていた高校に潜入調査する」
 安曇野は痩身をそらし軽くストレッチをしてみせた。
「センセならお似合いですわ」
 エレクトラは婉然と微笑んでうなずく。
「当たり前だ、わたしとてまだ十七歳だからな」
 口の端をゆがめて笑うと、安曇野は後ろ手で軽く手を振りながら研究室を出た。
「偽名を考えなくてはならんな」
 独り言が声に出たことに気づいて顔をしかめ、安曇野清隆は司令部へと向かう。地上に出るのは一ヶ月ぶりだと考えながら。

雨の合間に

『雨の合間に』



 小さな水滴が杏子(きょうこ)の鼻にぽつんとあたった。
 低く雲のたれこめた空を見て、共用ガレージから出してきたばかりの自転車をしまい、傘を差して歩いていこうかとちらと思う。
 ままよ、とペダルを踏んだのは今朝の天気予報が午後からは晴れると言っていたからだ。
 近所の郵便局まで行って振込みが一つ。それから夫の切らしていたタバコをワンカートン。
 ときおり体に当たる雨粒が上着を通過して、肌を湿らせていく様に感じる。こんな小雨のときは自転車のスピードを上げるのと下げるのとどっちが雨に当たらずにすむのだろうとぼんやり考えた。
 下町情緒に富むと言えば聞こえはいいが、やたらと川と橋の多いこの土地に杏子はまだ馴染めないでいた。
 結婚して四年、引越しを提案してきたのは夫の克也だ。今の住居は夫の生家にも近く、賃貸マンションも知人の口利きで良い物件に入ることができた。
 しかし、同じ都内とはいえ新宿まで快速電車で一時間近くかかるようなニュータウンで生まれ育った杏子にとって、時に潮の香りが海からさかのぼるこの土地の違和感は三ヶ月たっても拭えない。どことなくよそ者扱いされているような気がした。
 気のせいだと克也は言うが、この町の雰囲気にどうしても踏み込んでいけない自分を杏子は感じる。
 いつも職員が四名しかいない小さな郵便局で用を済ませ、折り返し帰り道の半ばにあるタバコ屋に寄る。コンビニではなくて「タバコ屋」という商売がまだ続いていることも杏子には驚きだった。
「タバコ屋は本当に通りの角にあるのね」と、夫とはじめてこの道を通ったときに話したのを思い出す。角のタバコ屋まで、なんて二むかし前のドラマの台詞のようだといつもくっくっ笑ってしまう。
 自販機の横に自転車を停めて、すいませんとカウンターに声をかける。商売の大半は自動販売機で済んでしまうので、この店を経営する老夫婦がカウンターに座っていることは少ない。
 返事が無いので大きな声を出そうと息を吸った瞬間、店先に張り出したビニール製のひさしにボツボツと重いものが当たる音がした。
 途端に耳鳴りのようなザーッという音。周囲の物音がホワイトノイズによって掻き消され、つかの間の無音状態に投げ込まれる。
 呆然と背後を振り返るとまさに滝のような雨だ。地面に当たって跳ね返る雨のしぶきで一面霞がかって見える。
「はぁ」とわれ知らず気の抜けるため息がついて出た。雨宿りのできる店先にいたのは不幸中の幸いだった。
 取り残された気分で頭を振った拍子に、視界の隅に鮮やかな黄色が飛び込んだ。黄色い雨ガッパ姿の子供が自販機の前に立っていた。まるで突然現れたかのようだった。
 杏子が顔を向けるとその子も振り向いた。口元は機嫌良さそうに微笑んでいるが、どこか無表情なあどけない目。幼稚園に入ったばかりくらいだろうか。男の子のわりに整った顔立ちで、吸い込まれそうな黒い瞳をしている。
 杏子はなにか声をかけようと口を開いたが、なにも言葉が浮かばなかった。男の子に向かってぎこちなく微笑むこともできず、互いに見つめあっていたのは数秒だったろうか。
 不意に男の子が小さな口でなにか声に出した。ニッとほほえむとためらうことなく土砂降りの中男の子は駆け出し、すぐに通りの角に消えた。
「またね」と男の子は言ったように杏子には聞こえた。
「またね」と杏子も声に出してみた。言葉と一緒にこれまで肺の奥底にわだかまっていた息詰まりがポンと取れたような気がした。
 通り雨だったらしく、雨足は急速に弱まり始めていた。
 タバコを買うついでに、帰りの傘を借りるお願いをしてみようかと考えている自分に杏子自身驚いた。
 もう少し呼吸を楽にして、この町とつきあっていけそうな気がした。